生涯
天文15年(1546年)三河国上野(愛知県豊田市上郷)に生まれる。
父は榊原長政。弟に榊原康政。他に姉妹が三人。母は不明だが弟康政と同母とも言われる(その場合道家氏)。
正室は大原左近右衛門某娘。
息子は榊原清定、榊原嘉兵衛、榊原照久。娘は仁木義忠室、石野広次室、小笠原正信室。
榊原氏は祖父の榊原清長の代に、伊勢国一志郡榊原より三河に移ったといわれる。
父榊原長政は酒井将監忠尚(酒井忠次の叔父とも兄とも甥とも言われる)の左官であった。
永禄5年、父長政が亡くなると17才で家督を継いだ。
永禄6年、酒井忠尚が三河一向一揆と同調して兵をあげると、それに従う。
永禄7年、一向一揆の収束時に罪を許され、徳川家康に仕える。
永禄10年、家康の長男松平信康が織田信長の娘徳姫と結婚し岡崎城に入ると、平岩親吉と共に傅役に抜擢される。
天正7年、信康が自害するとその責任を感じて蟄居。弟康政に家督を譲る。
天正18年、徳川家の関東入りにともない弟に従って上州館林に居を移す。
慶長10年に弟康政が亡くなると、翌年の慶長11年家康によって再び召し出され、久能山城代に命ぜられた。
慶長12年5月2日、久能山城にて死去。62歳。墓所は照久寺(現在は宝台院別院)。
三男照久がその後を継ぎ、元和2年に家康が死去した後に久能山東照宮の祭主(久能山総門番)を代々務める交代寄合として存続していく。
長男清定は康政の家老となる。次男嘉兵衛は駿府で家康公に仕えるがキリスト教の禁教により罷免されている。