概要
明治初年から文明開化を急いだ日本では、色々な面で価値観に混乱が生じた。
明治23年2月に開催された地方官議会の席上、知事たちも地方における徳育の混乱を指摘し、その是正を求めるに至った。
そこで、徳育の指針を法制局長官の井上毅が元田永孚の協力を得て起草した。
その起草方針は、
- 君主といえども臣民の良心の自由には干渉できないから、勅令ではなく社会上の著作とする。
- 宗教の争いを招かないように注意する。
- 哲学上の理論を避け、政治的な要素を入れない。
- 漢学や洋学に偏らない。
- 否定的な言葉を避ける。
このような方針のもとに基本的な骨格が形成されたのである。
明治天皇は、この井上草案に対して、更に元田が修正を加えるよう命ぜられ、元田と井上の協力により、ようやく完成した。
この「教育に関する勅語」は、他の政治的な勅語と異なり大臣の副署を加えず、明治23年10月30日、天皇が山県有朋首相と芳川顯正文相を宮中に召して下賜された。
その翌日、文相は、勅語の謄本を全国の学校へ頒布し、ついで各学校において奉戴の式典が行われた。
上述のように、法的拘束力のない天皇の「社会的著作」として発布されたが、一旦公表されると、起草者の意図を超えて教育勅語は、明治維新の理想や明治20年代の社会風潮にしたがって民間で様々に解釈されることになり、勅語が発布されるや否や厖大な数の解説書が出版された。
さらに、日本が日清・日露戦役に勝利すると、各国の識者は、日本の教育に注目するようになった。そこで文部省は、明治40年代に『英語・フランス語・ドイツ語・漢語の教育勅語訳纂』を刊行している。だが、そうした意図に反して国内では暴力や人身売買、企業の不祥事など徳目に背いた行いが頻発し、「如何に教育勅語が必要だったのか」をある意味で思い知る事態となり、終戦を迎えることとなる。
国外の評価
昭和20年の第二次世界大戦以降、アメリカの占領政策により、教育勅語の無効決議がなされ、実用主義の教育学によって日本の道徳教育が否定された。その代わりに教育基本法が定められている。
一方、同じく敗戦したドイツも徹底的に破壊され、さらに東西に分断されたが、西ドイツは見事に早期復興を成し遂げた。
日本の国会議員が西ドイツのアデナウア首相を訪ねた折、復興の秘訣を尋ねると、首相の部屋で日本の議員団にドイツ語の扁額を見せ、「私の政治理念は全くここから出ているのです」と言うので、「これは何の額ですか」と日本の議員が問うと、アデナウア首相はほほえんで「お国の教育勅語ですよ。一度この勅語をよく読んでご覧なさい。父母に孝に兄弟仲良く、夫婦協調し、人にはうやうやしく、自分には慎み深く、進んで公共の利益を広め、一旦祖国に危難があれば義勇公に奉じ、と書いてありますね」と言った。
またアメリカの法学博士ウエストは、教育勅語を読み「この勅語は日本帝国を対象にされたものだが、全ての人類にも当てはまるものだと確信した」と述べている。
教育勅語の十二の徳目
孝行:親に孝行をつくしましょう
友愛:兄弟・姉妹は仲良くしましょう
夫婦ノ和:夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
朋友ノ信:友だちはお互いに信じあって付き合いましょう
謙遜:自分の言動をつつしみましょう
博愛:広く全ての人に愛の手をさしのべましょう
修学就業:勉学に励み職業を身につけましょう
智能啓発:知識を養い才能を伸ばしましょう
徳器成就:人格の向上につとめましょう
公益世務:広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう
遵法:法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
義勇:正しい勇気をもって国のため真心をつくしましょう
(参考:明治神宮ホームページ)
反日・サヨクと呼ばれる人々は、こうした教育勅語の真っ当な人間として当たり前である徳目を「軍国主義的」などという主張をしている。どうしてそうなった。恐らく、義勇の項目のみをみているものと思われる。
大倉幸宏氏のように「勅語がなくなったから悪い。現代人の道徳心は戦前に劣る」と言う意見に反対し、教育勅語が消えた後でも日本人の道徳心は高まっていると唱える(それでも教育勅語に否定的では無い)とし、早急な復活に疑問を呈する人々も多い。
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終戦以降の経緯、徳目の詳細など。