三好政康
みよしまさやす
概要
父とされる(これもはっきりしない)三好政長が細川晴元と共に政敵・三好長慶と戦い、江口の戦いで戦死する。そのため細川方として長慶と争い、松永久秀らと干戈を交える。後に和解勧告に応じて臣従。丹波八上城攻めや紀伊・河内守護の畠山高政攻めに参加し、優れた前線指揮官として三好家の勢力拡大に貢献する。
長慶の死後、幼君・三好義継の後見役の1人として台頭。三好長逸・岩成友通と共に『三好三人衆』と呼ばれ、松永久秀とも協力して家中で重きをなした。更に久秀や他の三人衆と謀って永禄の変を起こし、敵対していた13代将軍・足利義輝を殺害する。しかし、その後は主導権争いで三人衆と久秀が対立し、三好家中は内紛状態に陥る。政康らは久秀への対抗策として主君・義継の身柄を確保し、その上で義輝の従弟で阿波公方(阿波国平島に在住していた将軍一族)の足利義栄を次期将軍に擁立。更には阿波本国の重鎮・篠原長房を味方に引き入れ、義栄に久秀討伐の御教書を発行させるなどして万全を期す。そして軍を久秀の本拠地・大和に進駐させ、同じく大和を根城とする筒井順慶らと共闘し、戦局を有利に進める。更には、旧敵・畠山高政と組んで決戦を挑んできた久秀に大勝。なお抵抗を続ける久秀に対し、義継の親征を仰いで戦わずして勝利を収める。その後は、阿波から上陸してきた長房らの援軍も得て、阿波公方足利義栄を14代将軍として擁立。畿内の反対勢力をほぼ一掃した。
しかし、義栄の処遇から当主義継との関係が悪化し、義継が久秀側に走ってしまう。加えて三好康長ら、一族からも離反者が出たため、三好家は再び三人衆と久秀による内部分裂状態となる。といっても、この時点での戦局はまだ政康ら三人衆側に有利だった。
しかし、1568年に織田信長が義輝の弟・義昭を擁立して上洛すると、状況が一変してしまう。義継と久秀が織田家に接近する一方で、三人衆は信長との対決の道を選ぶが、勝竜寺城や淀城が落とされ、岩成友通が戦死すると、ほぼ総崩れとなってしまう。政康も山城の木津城から、本国・阿波へて退去した。その後も抵抗は続けたようだが、1569年に阿波で没したといわれている。
しかし、実は彼には生存して再度歴史の表舞台に現れたとする説がある。なんと豊臣秀吉の家臣となってそのまま豊臣秀頼に仕え、豊臣方として大坂の陣に参加したと言うのである。そこに至る経緯は定かではないが、事実なら彼はこの時80台後半の高齢である。にもかかわらず自ら金棒を振るい、味方の離脱者が続く中で秀頼に忠を尽くし、大坂夏の陣で討ち死にした。享年は87歳(88歳とも)だったという。真田幸村の部下で「真田十勇士」の1人である三好清海入道のモデルは彼だと伝わる。
逸話
実は当時一流の刀剣の目利きであり、「三好下野入道聞書」という目利き論の著書も書いている。鑑定術における、細川幽斎の師でもあった。長逸、友通、松永父子と共に将軍・義輝を殺害した際、義輝が抵抗する際に用いた刀剣の価値に気付き、丁重に保護したのはこの政康であったという説がある。この時使用された刀は、童子切り安綱,鬼丸国綱,鬼切国綱,ニッカリ青江,二つ銘則宗,不動国行、薬研藤四郎、骨喰藤四郎、大典多光世、小龍景光、南泉一文字、三日月宗近、鷹巣宗近、籠手切正宗、村雨郷といった日本を代表する業物であり、これら貴重な刀身の多くが今日に残っているのは彼の功績であるかもしれない。
特に天下五剣の一つ、「三日月宗近」に関しては、後に正康が豊臣秀吉に献上し、その後高台院を介して徳川秀忠に伝わり、以後徳川家で管理されるようになったという話がある。ただし、三日月宗近の伝来に関しては他にも諸説あり、一次資料も無いので定かでない。