この駆逐艦をモチーフにした「艦隊これくしょん」のキャラクターについては「秋雲(艦隊これくしょん)を参照。
開戦前~ミッドウェー海戦後
「秋雲」は、浦賀船渠で1941年4月11日に進水、同年9月27日に竣工した陽炎型駆逐艦の最終19番艦。竣工ののち横須賀鎮守府に配属され、原忠一少将率いる第五航空戦隊(五航戦)に配属され、朧とともに翔鶴・瑞鶴の護衛を行った。第二次大戦に日本が参戦した際、真珠湾攻撃に、一・二・五航戦所属の駆逐艦として唯一、長い航続力を買われて参戦する。
その後南太平洋海戦において、連合艦隊司令部からの指示に基づき、日本の艦載機の攻撃により大破炎上した米空母「ホーネット」を巻雲とともに曳航しようと試みる。しかし、いかんせん駆逐艦2隻で空母を曳航するのは力不足であり、そればかりか大炎上中で近寄れない上、浸水して沈みかけていたことから曳航は断念し、ホーネットは最終的に巻雲により雷撃処分される。
ミッドウェー海戦の後は巻雲に加え、夕雲・風雲と共に第十駆逐隊を編成する。秋雲以外は夕雲型駆逐艦であるため、損耗による寄せ集めを別にすると、型の異なる駆逐艦の混成による駆逐隊は珍しい。
またホーネット沈没時にはこんなエピソードがある。
沈みゆくホーネットの姿を見た秋雲艦長の相馬中佐は、この光景を軍令部に報告提出すべく写真撮影するよう命じるが、航海長に「夜ですから写真は無理ではないですか」と意見された為、スケッチでホーネットの最期を記録する事となった。
スケッチを担当した信号員が「細部が見えない」と申し出ると、相馬艦長はスケッチの助けにしてやろうと「探照灯照射用意」と令して、ホーネットに向けて何度もサーチライトを照射したが、当然ながらこの行為は自らの存在を敵潜水艦に知らしめる事にも繋がりかねず、事情を知らない他の乗組員は驚き、巻雲からは「如何セシヤ」の発光信号が送られた。
相馬艦長は周囲の驚きをよそに5回、6回もサーチライトの照射を行い、「大胆というか、無謀というか」所業の助けを得た信号員は、幸い敵に発見されることなく無事にホーネットの最後の姿を描ききることが出来、信号員が描いたスケッチは後世に残されたのであった。
また、ホーネットはB-25を飛ばして東京を空襲したドーリットル隊の母艦でもあった為、乗組員の中には「東京空襲の仇を取ったぞ」と喝采をあげる者もいた。
救出した乗組員の命を救う
1943年3月、ニューギニアのハンサ湾で沈没した輸送船桃山丸より救出した乗組員の1人が、秋雲艦内で激しい腹痛を訴える。軍医の診断では盲腸炎、それもすぐ手術しなければ危険という。振動の激しい航行中の駆逐艦で手術は不可能、しかし船団護衛中の今、航行を止めるのは無謀極まりない、という中で、相馬艦長は決断を下した。船団に対し厳重な対潜警戒と大規模回避運動を指示しつつ「手術中は艦を停止するのでただちに手術準備にかかれ」と命令したのである。
秋雲は手術の間機関を停止し、敵地で完全無防備という極限状態の中、1時間半後、「手術成功」との報告が入った。間もなく秋雲全艦を大歓声が覆ったという。
やがて船団は無事パラオに入港する。もと桃山丸の乗員たちは、船員1人の生命を守るために払った秋雲の努力と厚意へ感謝しながら下船していった。
その後、秋雲は1944年4月11日、ミンダナオ島ダヴァオへ向けて航行中に米潜水艦「レッドフィン」の魚雷攻撃により沈没した。乗員のうち准士官以上8名と下士官兵108名、計116名が生還している。
なお、艦名はのちに2代目にあたる海上自衛隊の護衛艦、「やまぐも」型5番艦の「あきぐも」として受け継がれ、1973~2005年にかけて使用された。浦賀船渠の後身、住友重機械浦賀工場で建造されており、2代にわたり同じ造船所で建造されたことになる。
陽炎型?夕雲型?
秋雲は本来、「秋雲型駆逐艦」の1番艦となる予定だったが、対米関係の悪化から1隻でも多くの新造駆逐艦を欲した海軍の要請により、結果的に陽炎型の図面を使って建造、陽炎型最終艦になったといういきさつがある。実際、終戦直後に作られた資料の中には秋雲を夕雲型二番艦としているものもあり、近年までそのように扱われていたが、マル4計画上の仮称艦名では秋雲が第115号艦、夕雲は第116号艦で、秋雲の方が先である。
その傍ら、第115号艦として計画されていた段階での予定艦名は「島風」だったのだが、この名前を丙型駆逐艦が持って行ってしまったため、本来第116号艦に命名される筈だった「秋雲」が繰り上がった。
戦没直前に受けた対空兵装強化の訓令工事でも、第二砲塔を撤去してその跡地に25mm三連装機銃を2基据える、ほかの陽炎型と同じ工事を行っている。夕雲型は主砲の砲架が対空兼用のD型であるため、この工事は行われていない。
加えて、最近の艦艇研究家による調査で、海軍の内令や工廠の図面等に「陽炎型 秋雲」の記述があることが発見され、艦橋の形状や設計図の艦体全長が陽炎型と一致しているという調査結果も出た。
したがって、陽炎型であり、夕雲型ではないことが証明できる。