戦歴
「浜波」は、1942年度(マル急計画)仮称第341号艦として舞鶴海軍工廠で建造され、1943年(昭和18年)10月15日に竣工した夕雲型駆逐艦の13番艦。就役と同時に舞鶴鎮守府籍となり、間もなく第32駆逐隊所属となる。
翌年のマリアナ沖海戦では栗田健男中将率いる丙部隊(第三航空戦隊、戦艦大和、戦艦武蔵など)に属して参戦する。海戦後、6月24日にいったん柱島泊地に帰投するが、7月9日、大和や武蔵など、栗田中将旗下の第二艦隊の中枢を護衛して臼杵湾を出撃、任務終了後はリンガ泊地に直接向かって7月16日に到着した。
レイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加。10月26日、第二水雷戦隊旗艦の能代が米軍機の空襲を受けて沈没したことから、浜波は同型の秋霜とともに早川少将以下の第二水雷戦隊司令部や、能代艦長の梶原季義大佐以下、乗員の大部分を救助する。海戦後はコロン島で補給の後、ブルネイ湾に帰投し、その後、マニラに進出した。
浜波は11月9日未明、多号作戦第三次輸送作戦を護衛してマニラを出撃する。第三次輸送部隊は11日にオルモック湾に到着する予定だったが、その直前に米軍機347機による空襲を受けてしまう。この際、浜波は艦首に被弾して艦首が垂れ下がり、他に三発被弾して舵も損傷、実質的に航行不能となる。重傷を負った大島一太郎司令、艦長の本倉正義中佐を含む乗員11名が横付けした朝霜に救助され、浜波の船体は放棄された。
この後、先に沈没した長波艦長の飛田清少佐が、生き残った同艦の乗員数十名を引き連れ、漂流中の浜波に乗り移った。飛田少佐は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にすることを決心する。しかし潮流に流されて擱座に失敗したため、結果的に翌12日、飛田少佐以下の長波乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た大発動艇に移ってレイテ島に上陸した。
再び浜波の船体は放棄されたが、その後の動向は不明である。
関連タグ
夕雲型駆逐艦: 夕雲/巻雲/風雲(駆逐艦)/長波(駆逐艦)/巻波(駆逐艦)/高波(駆逐艦)/大波(駆逐艦)/清波(駆逐艦)/玉波(駆逐艦)/涼波(駆逐艦)/藤波(駆逐艦)/早波(駆逐艦) 沖波(駆逐艦)/岸波/朝霜/早霜(駆逐艦)/秋霜/清霜