二代存在し、初代はロシアからの戦利艦であり、二代目は睦月型駆逐艦の5番艦である。艦名は旧暦の5月に由来する。
ここでは二代目について解説する。区別のため、「皐月 (2代)」や「皐月II」などとも表記される。
概要
1923年度計画艦にて藤永田造船所で建造され、1925年11月15日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。当初は「第二十七号駆逐艦」という艦名であり、後の1928年8月1日に「皐月」と改名された。
太平洋戦争では、フィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦などに参加。バタビア沖海戦では、第5水雷戦隊第22駆逐隊に所属し、同型駆逐艦である「文月」「水無月」「長月」と共にジャワ海方面で船団護衛に従事。
1942年10月12日に第一海上護衛隊に編入、引き続き船団護衛に従事する。
1943年1月31日からのガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加。その後もラバウル方面で輸送任務などに従事した。
同年7月17日にショートランドで敵機の攻撃により損傷、呉工廠で修理。
翌1944年1月4日にカビエン付近で敵機の攻撃を受け損傷、横須賀工廠で修理。
同年4月よりサイパン方面の船団護衛に従事する。
同年7月4日に小笠原諸島父島敵機の攻撃を受け至近弾により損傷、横須賀で修理。
以上のように損傷の激しい艦だったが、その度に生還して不死鳥のように舞い戻っている。
その後は内地とシンガポール間の船団護衛に従事した。
同年8月21日には連合艦隊第31戦隊第30駆逐隊に編入される。
1944年9月21日明朝にシンガポールからマニラに入港。
同日、マニラ湾にてアメリカ軍の空母艦載機の攻撃を受けた。対空戦闘で敵機を撃墜するなど奮闘したが、午前の第一次空襲で左舷に落ちた至近弾により復水器が破壊され、片舷航行となった。また複数の至近弾により負傷者が出た。
午後に入り第一缶室に爆弾が命中、速力が更に落ちた所で2発の爆弾が命中し、遂に命運尽きて轟沈。
生存者は陸上からの大発動艇により救助された。
まもなく生存者全員は日本に帰還でき、幸いにも後のマニラの地上戦に巻き込まれることはなかった。
11月10日除籍。