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編集者:nozomu6
編集内容:親族関係の記述を加筆しました。

アグリッパ

あぐりっぱ

古代ローマの執政官。アウグストゥスの腹心。軍略が苦手なアウグストゥスの代理で軍を指揮し、内乱を制する。「その一生は、ことごとくアウグストゥスの考えの実現に力を貸すことに費やされた。公的にも私的にもアウグストゥスに尽くし捧げぬくことは『すべてが喜びであり』『すべてが感謝』であった」  デッサンモデルの石膏像でも有名。
マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパ
Marcus Vipsanius Agrippa
世没紀元前63年 - 紀元前12年

古代ローマ軍人政治家である。カリグラと彼の妹でネロの母・アグリッピーナの外祖父にあたる。

生涯

帝政以前

 ローマ帝国の確立を目指すアウグストゥスオクタウィアヌス)の友人であり、協力者。アグリッパの功績を讃えて、「アウグストゥスの右腕」といわれる。

 特に軍事面での協力はいちじるしいものがある。

 父親の名前はルキウス・ヴィプサニウス・アグリッパ。兄弟では、であるルキウス・ヴィプサニウス・アグリッパとウィプサニア・ポッラがいたと思われる。

 騎士階級出身で早いうちから軍務に就いたアグリッパは、カエサル(英語:シーザー)のもとで対立する元老院派と戦う。

 紀元前45年3月17日にカエサルの目に留まったアグリッパは、同年にオクタウィアヌス(アウグストゥス)と引き合わされる。これには頭脳明晰ながら病弱なオクタウィアヌスと根っからの軍人で屈強なアグリッパで、互いに補い合うコンビを組ませる意図があった。

 2人は同年代であったので、同様な教育を受け親しい友人となる。カエサルがローマ共和国で独裁権を握って行く中、アグリッパとオクタウィアヌスはともにギリシアのアポッロニアに遊学する事になった。

 彼らがギリシアに旅立って4ヶ月が過ぎた紀元前44年3月15日、カエサルは暗殺される。カエサルの遺言でオクタウィアヌスが後継者に、アグリッパはその後見人に指名されていた。

 反カエサル派の元老院議員が粛清され、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる「国家再建三人委員会」が発足した(第二回三頭政治)が、レピドゥスが失脚するとオクタウィアヌスとアントニウスの対立が深まった。

 紀元前31年、ギリシア北西岸のアクティウム岬沖で「アクティウムの海戦」が行われ、オクタウィアヌス派がアグリッパの軍略により、アントニウス派とプトレマイオス朝エジプト女王クレオパトラ)の連合軍を打ち破った。

 これにより一世紀に亘るローマの内乱に終止符が打たれた。

アウグストゥス時代

 紀元前27年、オクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス」の尊称を与えられた。「インペラトル」(英語:エンペラー)の称号を許され、政治体制は元首政へ移行し帝政期が始まった。

 平和な時代(ローマの平和/パクス・ロマーナ)となった当時のローマではアグリッパは政治家として、アウグストゥスと親密な関係であったこともあり、率直な意見の交換が可能であったと考えられる。

 アウグストゥスの一人娘と結婚したアグリッパは、アウグストゥスの孫である自身の息子達が成人するまでの中継ぎ皇帝として考えられていたが、自身と息子達はアウグストゥスよりも早く亡くなってしまう(紀元前12年)。

 彼と息子達の死でアウグストゥスとティベリウスの関係は悪化し、後継者問題が表面化する。

 様々な建造物を建立し、世界遺産のひとつ、ポン・デュ・ガールを建立したことでも有名。

石膏像

 デッサンで描かれる石膏像でも、初心者向けの石膏像として有名である。

 pixivでも、アグリッパが描かれているデッサンが見受けられる。

しかし、ブルータスやマルス、そしてミロのヴィーナスなどに押されて知名度は低い

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