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佐々成政の編集履歴

2011-04-17 00:15:38 バージョン

佐々成政

佐々成政(?-1588)は戦国時代の武将である。尾張国出身。

概要

尾張北西部に拠点を置く土豪・佐々成宗の三男として誕生。

二人の兄(佐々政次、佐々孫介)の相次ぐ戦死により家督を継ぐ。

織田信長に仕え、馬廻り(大名の護衛)を経て精鋭部隊黒母衣衆の筆頭に抜擢され、戦功をあげた。

その後柴田勝家率いる北陸方面軍に従軍し、越前府中に領地与えられる。同じように領地を与えられた前田利家や不破光治と合わせて府中三人衆と呼ばれた。

織田家が対上杉の最前線である越中平定に成功すると、越中一国を与えられたが完全に越中を支配下に置いたまさに次の日に本能寺の変が起きてしまう。上杉の反撃への対応に追われた成政は動くことができず、豊臣秀吉に先を越されてしまう。

その後に起きた信長の跡目争いでは勝家側につき、勝家の敗死後は徳川家康に与して秀吉に抵抗した。しかし家康が秀吉と講和してしまうと立場が悪化、家康に再び決起してもらうために厳冬の北アルプスを越えて(さらさら越え)直談判にいくが失敗。織田信雄滝川一益にも交渉するが色よい返事はもらえず、結局秀吉自ら挙兵して越中に侵攻して来た(富山の役)際、信雄の仲介で降伏する。結果として助命されたものの越中・新川郡を除く、領地の大半を没収された。

その後しばらく妻子とともに大阪に移り御伽衆(よく言えば執事、悪く言えばパシリ)として秀吉に仕える。九州征伐に功があり、肥後一国を与えられて再び国主に返り咲く。着任早々太閤検地を実施するがこれに地元の国人が反発。隅部親永を中心に一揆を起こされてしまう。成政は即座に親永の籠る隅府城を攻め落とすが、親永の逃亡先である城村城攻略に手間取っている間に別に兵を挙げられ、逆に苦境に立たされる。結局援軍要請を受けた秀吉の出陣で一揆は年内に鎮圧されるが、成政は謝罪の為に大阪に赴くことになる。しかし謝罪は拒否され、成政は幽閉の後一揆の責任をとらされて自害した。

成政の息子は夭折しており、養子も復姓していったため、佐々氏は断絶した(但し、傍流(成政の実姉)の子孫として、徳川光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎のモデルとされる人物)、元内閣安全保障室室長の佐々淳行佐々瑞雄(佐々成政研究会会員。こちらは成政の甥・佐々直勝の子孫にあたる)等がいる。

)。


人物

秀吉を嫌っており、同じ母衣衆の利家とも仲は悪かったという。また、同じく秀吉嫌いの勝家とも大喧嘩をやらかしており、必要以上に敵を作るところがあったようだ。このように血気盛んで猪突猛進な武将のイメージが強いが、実際は政治家としての手腕もあり、数年間の越中統治の際に堤防を築き、越中領民の悩みの種である河川の氾濫による水害を防いでいる。その為、領民は成政の事を慕い、その堤防は「済民堤」または「佐々堤」と名付けられて現在でもその遺構は残っている。


織田家臣の中での後世の扱いは不遇な方であり(佐久間信盛よりはだいぶマシだが)フィクションでも出番が少ない。ただ織田家に対して忠義を尽くしてはいるので、愚直で不器用な武人としてそれなりの見せ場を与えられることもある。


pixiv上のイラストは大半が戦国大戦のものだが、本作では「成政が戻ってきたぞ、安心せよ!!」、「この成政が~っ!!」、「ふっ、楽勝すぎて欠伸が出るわ!!」、「織田を支える若き才……、それがこの成政よ!!」といった相当なインパクトのある台詞を喋る、自信家でナルシストなキャラクターとなっている。しかしカードスペックの方はバランス的に安定しており、「母衣衆の采配」(織田家の味方の武力を引き上げ、かつ敵のダメージ計略や妨害計略の対象にならなくなる)という独自の計略を持つ、使い勝手の良い武将として人気がある。

関連タグ

織田信長 豊臣秀吉 前田利家 戦国大戦

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