概要
昭和5年(1930年)、当時の東京府東京市麻布区にて、佐々弘雄(朝日新聞社論説主幹。のち参議院議員)の次男として生まれる。
兄・佐々克明は父・弘雄と同じく朝日新聞社の記者として活躍、実姉・紀平悌子は婦人運動家である市川房枝参議に師事したのち、参議院議員となった。
佐々〝さっさ〟という苗字からお分かりの方も多いやもしれないが、戦国武将・佐々成政の系譜をひいている。また、水戸黄門の助さんこと佐々木助三郎のモデルとなった佐々宗淳の系譜でもある。
在学中は学生研究会土曜会の一員として、大学正常化(いわゆる学生運動の切り崩し)に関わったほか、級友らとともに様々な政治家、官僚等々に指導を仰ぎ、勉学を究めた。
吉田茂元総理からも示教を請うたこともあり、憲法改正をめぐっては直接自宅に赴いて意見を求めたと著書内で記している。
東大時代の同窓には、のちに沖縄返還交渉の任を帯びる若泉敬や、出版業界で活躍する粕谷一希らが名を連ねている。また当時、左派系学生の間で〝アンジン〟の異名を取った安東仁兵衛とも邂逅している。
(学生時代の佐々が、学内で開かれた左派系集会で反対演説をしたことが安東の目に留まったらしく、二言三言の会話を交わしたそうだ。数十年を経て、佐々が退官後、安東の一件を寄稿したことがキッカケとなって再会。安東が逝去するまで交流を深めたという)
過度の水泳の高飛び込み練習により発症した肋膜炎の治療に加え、学生研究会土曜会としての活動継続を仲間メンバーより遺留されたことも理由となって1年留年。
(日本育英会の特別奨学金は継続となった)
5年かけて東大を卒業後、昭和29年(1954年)に国家地方警察本部(現・警察庁)へ二番目の成績で入庁。爾来、有資格者(いわゆるキャリア官僚)として警察人生を歩む。
半年間にわたる訓練期間を終え、警察大学校卒業後は警視庁目黒警察署に卒配(卒業配置)となった。以後、外勤第3班主任(警部補)を皮切りに──
などを警察時代に歴任。警察時代の最終役職は警察庁刑事局参事官(警視長)である。
このほか、外務省への出向(在香港日本国総領事館領事)や防衛庁への出向(防衛庁官房長や、防衛施設庁長官など)を経験している。
昭和61年(1986年)6月、一旦、防衛庁を退官した後、中曽根康弘内閣で新設された内閣官房内閣安全保障室長(初代)に就任。同時に内閣総理大臣官房安全保障室長も併任している。
竹下登(DAIGOの祖父に当たる)内閣においても再任されたが、平成元年(1989年)6月、昭和天皇大喪の礼の事務手続を最後に退官。
退官後は天下りや、与野党問わずの政治家への転身を断り、個人事務所を開設。作家として、また危機管理・政治評論家として本の執筆や新聞等への寄稿、テレビ出演や講演会など晩年まで精力的に活動を続けていた。
焼け跡の青春
昭和5年(1930年)に東京府東京市麻布区に生まれた佐々淳行少年。
佐々が6歳であった昭和11年(1936年)には二・二六事件が勃発。昭和16年(1941年)には太平洋戦争開戦のキッカケとなる真珠湾攻撃が発生。この二つの経験が佐々にとり危機管理人生の原点となったという。
佐々は東京大空襲も麻布の自宅で経験したが、激化する空襲を受け、埼玉・秩父に疎開し、松根掘りを行なう日々のなかで終戦を迎えた。15歳、中学3年生のことだった。
戦後、東京へ戻った佐々は旧制成蹊高校へ進学。17歳にして父・弘雄を亡くすなど波乱に満ちた日々が続くなか、日本育英会の奨学金が一家の生計を支えになっていた。
(のちに佐々は、およそ30年をかけて分割払いで奨学金を完済している)
猛勉強の末、佐々は東京大学へ入学、アルバイトの傍ら、先述した学生研究会土曜会の活動などで交友関係を広げてゆく。
昭和25年(1950年)の5月、南山小学校時代に担任・伊藤先生と交わした男の約束(伊勢神宮の遷宮が行なわれる昭和25年、上野の西郷さん像に集合し、皆んなで御伊勢参りをしよう)を思い出した佐々は、約束の地である上野公園へ向かう。社会の価値観が一変した戦後動乱期のなかでも、〝男の約束〟を果たした6名の同級生らが集い、共に付近の喫茶店で語り合った。
(伊藤先生は結核性脳膜炎により、すでに物故されていた)
東大在学中は、宮沢学説をはじめ〝憲法学の権威〟として知られる宮澤俊義教授や、岡義武教授、高野雄一助教授らの講義を聴講。
「良好な治安と国の防衛こそ最高の社会福祉である」
数多くの講義を受けるなか、法学部・高野雄一助教授が紹介したラッサールの〝夜警国家論〟に感銘を受けた佐々は、警察の道へ進むことを決意。昭和28年(1953年)に復活した、警察三級職試験の第二回試験を受け、上位2番で合格。
学生運動の取締をはじめ、警察や自衛隊の活動が世間から誹りを受けたり、不評を買ったりするなかで数々の現場指揮官を務めた佐々だが、彼が支えとしていたのは、東大時代最後の講義でヨーロッパ政治史を担当する岡義武教授が語ったロマン・ロランの言葉だった。
『この世にヒロイズムがあるとすれば、それは現実を直視し、しかも愛することである』
この言葉を胸に佐々は東大を卒業。肋膜炎も完治し無事、警察庁へ入庁する。
乃公出でずんば──志を帯びて警察へ
目黒警察署物語
昭和29年(1954年)4月、警察庁警察大学校へ入校。警察大学校時代の〝同期の桜〟には、のちに第75代警視総監を務める鎌倉節や、第13代警察庁長官・金澤昭雄、関東管区警察局長の鉄炮塚瑞彦、内閣情報調査室長の谷口守正らが名を連ねる。
警大在学中は警視庁愛宕警察署新橋駅前派出所にて実務修習に立った。
半年間の教養を終えて卒業(正式には辞職)した後、警視庁目黒警察署へ配置となり、病欠の主任(警部補)に代わって外勤第三班を指揮し、派出所(現在の交番)監督巡視や、外勤警察官に対する指導・同行監督を行なった。このほか実際に警ら活動や、110番急訴への対応、継宮明仁皇太子殿下(現在の上皇陛下)の御警衛に従事している。
パトロールカー自体、満足に配備されていなかった当時のパトロールは、もっぱら徒歩や自転車によるものが主流だった。『警視庁の唄』の2番には、このような歌詞がある。
〽︎炎熱の巷の中や、星凍る冬の夜空に──
この言葉通り、炎天下の夏場、カーキの盛夏制服は汗で滲み、寒風吹き荒ぶ冬場には、涙や鼻水がとめどなく溢れるなか、自らと同年代である十代・二十代の外勤警察官らと共に勤務した経験が佐々に根強く残り、彼を重度の現場主義者に導く遠因となった。
(目黒署の自動車自体、ジープなどが3台あるだけで、警視庁全体では自動車警ら隊に数十台が配備されている程度だった)
昭和30年(1955年)の年頭、本来の主任が全快したことを受け、刑事課へ異動し捜査主任を務める。刑事課長を務める三席警部の実績や経験に基づいた指導もあって、佐々は部下たちを率いる統率能力を身につける。なお、この当時の部下であった〝巡査部長三銃士〟の一人とは、佐々が警備第一課長に着任した際、上司と部下として再会することとなる。
首切り朝右衛門
昭和33年(1958年)4月、埼玉県警警務部監察官であった佐々は、大分県警警務部警務課長に着任。
本来、昭和29年入庁組で、まだ経験も浅い佐々を部長級警視に据え置くことはできないが、当時の県警本部長・富田朝彦警視長や警務局人事課次席・國島文彦警視長らの強い支持もあって、〝警務部長心得〟(事実上の警務部長)として配置された。
これは、当時、あまりに幹部警察官らの非違・腐敗が横行した大分県警の改革を目的とした『抜擢人事』であり、前任者から数え6年飛ばしの超・飛び級人事であった。ちなみに、富田新県警本部長は旧内務省でも『花の十八年組』と称される昭和18年入庁組、当時38歳という大分県警史上最年少で県警本部長に就任している。
戦後、従前の大分県警察部はGHQによる占領政策の一貫で解体され、新たに設立された県内7個ある自治体警察と、自治警を持たない地域を管轄する国家地方警察大分県本部とに一旦分割された経緯がある。
- 大分県内の自治警一覧
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- 佐伯市警察:佐伯市を管轄
だが、極度に地元と距離感が近い自治体警察時代に政治家や暴力団との癒着が進行し、新警察法に基づく大分県警察本部発足後もなお、腐敗が横行してやまなかった。
たとえば、警視正・警視の幹部クラス警察官が結託し、部課長ポストをたらい回しするために人事は停滞したうえ、警視以上の人員数が変動しないため、警部以下の警察官昇進試験が3年間に亘って実施されないという異常事態に陥っていた。平均年齢を比較すると警視・49歳、警部・48歳という常識外の団子状態。警務部内の懲罰委員会も機能不全。
自治体警察時代以降、九度も所属長ポストを行ったりきたりしている某部長。定年間近の警察官ではなく、まだ四十代というから、所属長ポストの少ない地方県警でいかに異常であるかがお分かりいただけるだろう。
某警察署長は、地元の暴力団幹部と癒着し、公然と交友し、挙げ句、件の暴力団構成員が逮捕されても即釈放するという有り様。
公職選挙法? ナニソレオイシイノ?
地元の首長など政治家と癒着しているから、選挙違反の取締りもなされない。
警察官舎もロクに整備されておらず、金銭的に余裕のない若い警察官らがつけ込まれる隙も与えてしまう。幹部会同や公式会議も県警本部ではなされず、別府の温泉旅館での酒盛り状態。
それでもなお〝東下り〟と称される、キャリア警察官が正常に機能していれば、ある程度は浄化されるのだが──敵もさるもの。当時の県警幹部陣らはキャリア官僚を酒・女・金などで籠絡し、警察庁や新聞記事等に投書し、辞職させるという手段を用いていた。これにより、大分県警警務部長(県警ナンバー2)を務めたキャリア官僚3名が連続して辞職に追い込まれている。
そのような大分県警を前にして、入庁時の面接で『暴力革命を阻止するため、民主主義・警察の自己浄化が必要だ』という意見を述べた佐々が適任だと判断され、富田県警本部長の下に配置されたのであった。
着任早々、県警本部のすぐ北にある屋台『平和』(現在も同所にて営業中)にて、義憤を抱く警務部の若手警察官らと一晩共に飲み、徹底的な監察を実施することを誓い合ったという。以後、在任中、35名いる幹部警察官のうち15名を懲戒免職に追い込み、警部以下60名の昇進試験を実施できるようこぎつけている。この徹底した処分を前にいつしか、県警警察官の間で佐々は『首切り朝右衛門』と呼ばれるようになった。
このほか、別府市内で開かれた道徳講習集会警備では、集会に反対する日教組によって拉致された若手警察官を救出すべく、単身で乗り込み『数十分経って私が帰還しなければ機動隊が突入する手筈になっている』と対峙し、無事に救出するなどしている。
ケネディ事件調査・東京五輪警備調査
昭和39年(1964年)、佐々は警察庁警備局付となり、のちの香港領事就任を控えて外務省研修所に入所し、語学や左ハンドル車の運転技術、外務省職員としての心得など多岐に渡る項目を学んでいた。そんな最中、『あのなァ、キミちょっとアメリカ行ってな……』という警察庁警備局長・後藤田正晴警視監から特命を受け、米国へ派遣。
この特命は、前年(1963年)に発生したケネディ大統領暗殺事件を受け、シークレットサービスが要人警護体制をいかに改善したのか、折しも10月に迫る東京五輪を前に検討したいという意向によるものだった。
だが、いくら日本警察といえど、事件後間もないアメリカの警察当局やホワイトハウスが手の内を明かすだろうか……?至極当たり前な疑問を思い浮かべた佐々は、非役人的手段の一計を案じた。佐々のとった非役人的手段は、交友関係のあった米国大使秘書官を介しライシャワー大使に信任状や、パンアメリカン航空の広報部長や信越化学社長に紹介状を書いてもらい、これを『便宜供与願い状』にするというものだった。
【ライシャワー大使による紹介状の一部文面】
〝Mr. Sassa is a young man but an outstanding officer with a promising career in the Police Agency.
He is known to me and my staff personally, and I can affirm that he is a mature and reliable individual who will profit greatly from discussions on this subject.〟
佐々氏は外見こそ若いが、警察庁に所属する優秀な警察官である。彼のことは私もよく知っているが、充分に成熟した信頼に足る人物といえる。
(『香港領事動乱日記 危機管理の原点』第19頁より引用)
調査費は5百米ドル、出張旅費は日額19ドル5セント。
日本円に換算するとおよそ7千円だが、米国では実勢2千円程度という金額だった。この調査費から、殉職したダラスの巡査への香典を捻出し、FBIエドガー・フーバー長官への手土産(ノーベル工業製伸縮式警棒)を携えつつ渡米。予想通り、当初は白眼視された佐々だったが、数々の『便宜寄与願い状』が威力を発揮、無事に要人警護体制を纏めることに成功。
帰国後、半年間に及ぶ外務省研修所生活を終えた佐々は外務省アジア局中国課(原富士男課長)へ配置されたのち、オリンピック関連の亡命対策や、警視庁との警備連絡に奔走することとなる。
香港領事・佐々淳行
昭和40年(1965年)2月8日、佐々は在日本国総領事館副領事として香港へ赴任。以後、数々の便宜供与や、ストーンカッタース島での遺骨収集など、言葉通り『揺り籠から墓場まで』の職務にあたった。
前者では、政財界はじめ、官界、マスコミ関係などに広く人脈を広げることとなり、のちに佐々が政府委員として国会答弁をする際などに大きく役立てられた。
後者では、ストーンカッタース島に仮埋葬された175名にものぼる帝国海軍将兵の英霊と遺品を故郷・日本の地へ帰還させる職務に従事した。鎮魂歌『海ゆかば』を小声で捧げ、発掘作業を開始し、最初に発見されたのは少年兵の遺骨だった。
英国将兵らも作業に加わり、175名すべての遺骨を発掘、帰還させることに成功。
(ストーンカッタース島には、特務艦『神威』、海防艦『満珠』、貨物船『象山丸』、タンカー『天栄丸』および『松島丸』の乗員が眠っていた)
帰還した遺骨は、神威の艦長以下、乗員らが羽田空港で出迎えた。軍医の方は「これで私も目がつぶれます」と呟いたほか、遺族の女性は自身の息子が帰還できたことにハンカチを握りしめ、涙したという。
左近允二佐の便宜供与
数々の便宜供与のなかで、佐々が腹を決めて行なったというのは、海上自衛隊の左近允尚敏二佐による依頼である。左近允二佐の依頼は「父が処刑されたスタンレー監獄に行き、手を合わせたい」というものだった。左近允二佐の父とは、ビハール号事件(詳細は、利根(重巡洋艦)のページに詳しい)でBC級戦犯の判決を受け、絞首刑に処された左近允尚正中将、その人だった。
佐々は「亡父の意志を継ぐ息子の意志を、敗戦で絶たれた心の絆を結んであげたい」と奮起したが、戦犯の息子が合掌を希望しているなどと正式に伝えれば拒絶されるのは目に見えている。
佐々は左近允二佐を〝法務官(法律を担当する軍人)〟に仕立て上げつつ、『死刑存置国である英国の刑場を視察したい』という理由でスタンレー刑務所に許可を求めた。刑務所長はこれを快く許可し、自ら佐々と左近允を案内した。左近允が密かに絞首台へ向かう間、佐々は刑務所長の気を引きつけるべく、質問を投げかけた。
やがて、左近允が佐々らのもとに追いつき、何事もなかったかのように〝視察〟は終わるかに見えた。だが、別れ際に刑務所長がにこやかな笑顔のままで口に出した言葉に、この二人の日本人は魂を揺すぶられることとなる。
「ミスター・サコンジョウ。お別れの祈り、十分なさいましたか? 御満足頂けましたか?」
この刑務所長は〝サコンジョウ〟という珍しい苗字に全てを察し、何も言わず、騙されたふりをして、慰霊を見守っていたのである。
佐々は著書内で『これぞジョン・ブルの〝武士の情〟。そこには戦争の怨念も国境もなかった』と記している。
(『香港領事動乱日記 危機管理の原点』第70頁より引用)
六七暴動(香港大暴動)
〝東洋の真珠〟とも称される香港は、ハワイや韓国、台湾などとならび、日本人が海外旅行先に選ぶことも多く、当時から多くの日本人観光客が訪れていたほか、在留邦人の数はおよそ3千人にのぼった。佐々の任務は、日本人観光客や在留邦人の保護、最悪の場合の緊急退避にあたることだった。
折しも、中国本土では文化大革命が巻き起こり、国内情勢は不穏をきたしていた。昭和42年(1967年)には、香港島内でも六七暴動(香港大暴動)が勃発。一国二制度の形をとる香港で起こったこの事態を受け、英中関係は時代に緊迫化し、国外情勢も平穏とはいえない状態になりつつあった。
警察時代の経験を買われた佐々は、香港総領事館の危機管理担当領事(現在の在外公館警備対策官に相当)に就任。香港島内に支店を持つ東京銀行、丸紅、日本航空、新聞各社支局などを合わせた官民合同の危機管理委員会を発足。さらに、香港日本人会や、香港水交会らと共にネズミ算・木構造式の非常連絡網を構築。
また、遠藤総領事からの特命を受け、一時帰国時に外務省、防衛庁等との計画策定にも加わっている。
(幸いにして、この計画が役立てられることはなかった)
このほか、佐々は香港暴動の現場に直接赴き、英国警察による警備手法を目の当たりにしている。英国警察によるそれは、催涙ガスや、ゴム弾・木弾などの非殺傷性武器の積極使用によるもので、肉弾戦や、せいぜい木製警棒による白兵戦が主である日本警察のそれとは全く異なるものであった。
警察・学生双方の死傷者を軽減すべく、佐々は警察時代の先輩である土田國保警視庁刑事部長や、川島廣守警視庁公安部長などに〝催涙ガス使用を決断せよ〟や〝部隊を増強し英国式の警備を実施せよ〟と記した意見具申の手紙を送付している。
(この手紙に記した内容を、のちに自ら実行することになろうとは、果たして予想し得たであろうか……)
サイゴン・テト攻勢。警察庁へ帰任
昭和43年(1968年)、佐々は夫人を伴って十泊十一日に及ぶ東南アジア視察旅行へ出発。夫人と別れた直後、2月1日にベトナムサイゴンでテト攻勢に遭遇。サイゴンの在南ベトナム日本国大使館(現・在ホーチミン日本国総領事館)に籠城し、情報収集に務めた。十日後の2月10日、佐々は海江田鶴造内閣調査官とももにベトナムを脱出。
本来、佐々は3年間の任期を終え、この年の2月末を以て警察庁へ帰任する予定であった。
だが、外務省は人員が不足していることを理由に「将来、大使クラスへの人事を保障するから」と、出向ではなく、外務省への移籍を提示。警察庁側が難色を示したこともあり、佐々は丁重に辞退し、1年間の期間延長ということで折り合いがついた。
かと思われたが、急きょ、第二次安保闘争に対する人事強化策の一環として、警察庁への帰任辞令が出されることとなり、延長任期半ばにして6月29日夜、佐々は香港から日本へ帰国することとなる。
(なお、この当時、移籍に応じた他省庁キャリアは全員、大使級まで出世したとのことである)
激動の990日・警察戦国時代
東大安田講堂事件
昭和43年(1968年)7月1日、香港領事より帰任し、警視庁公安部外事第一課長に着任。東京をはじめ、日本国内では新左翼や全共闘による第二次安保闘争真っ只中であり、帰国早々から数々のデモ・騒擾事件現場の警備指揮を執ることとなった。
本来、帰国後は警察大学校や関東管区警察局などの閑職に就け、各種報告などのリハビリ期間を置いて第一線へ配置する人事が慣例となっていたが当時は学生運動全盛期であることから、帰国翌々日から現場に配置されている。
(なお、前任者である椿原正博外事一課長は、佐々の三期後輩であった。椿原課長は後任の名前を見て「外事の専門家のドえらい先輩がきちゃった」と感じたそうだ)
折しも、東京大学では学生によって安田講堂にバリケードが構築されるなど、学生運動が風雲丘を告げる情勢だった。これを受け、ときの秦野章警視総監のゴリ押しによって進められたドンパチ要員結集人事により、わずか4ヶ月後の11月、それまでの警備部を二つに分離・再編成する形で新設された警備部警備第一課の初代課長に横滑りした。
この異例ともいえる人事。前任の警備課長は一期後輩だったという。
(キャリア人事は、原則、年功序列の形式となっている。つまり年次が上の者の後に年次が下の者が配置されることが常だが、佐々の場合は年次が下の者の後に配置されるという逆年次状態であった。)
警備第一課長着任後、激動の990日と称されるほどに多発した学生運動警備や大学のバリケード解除、特に昭和44年(1969年)の東大安田講堂封鎖解除警備においては総合警備本部幕僚長として現場指揮を執り、母校・東大の惨状を目の当たりにした。
一方で、機動隊の装備資器材や、警備戦術の大幅な改革に腐心。
例えば、ひと昔前の機動隊といって多くの方がイメージするであろう、ジュラルミン大盾にヘルメットの組み合わせだが、ヘルメットに頸椎防護垂れが装着されたのもこの時期。睾丸防護・脛部防護用のプロテクターは佐々の発案によるものだった。
負傷者軽減を目的とし、催涙ガスの積極使用にも踏み切り、以降、機動隊の治安警備出動時に〝究極の方程式〟と呼ばれる『催涙ガス・放水・大盾』を完成形に導いている。
また、機動隊員らを励ますための愛唱歌づくりを提唱。ときの秦野章警視総監が作詞家の川内康範と親交があったことから計画はスムースに実行に移され、作曲を猪俣公章に依頼、御三家のひとり・橋幸夫が歌唱するシングル『この世を花にするために』・『この道』として発売された。
橋はこの二曲を〝人間応援曲〟であるとし、かねてより警察官や自衛官など、命を賭して他人の安全を守る職業に尽くす人々に畏敬の念を抱いていることも明かしている。
(実際、橋は居住する静岡県熱海市を管轄する熱海警察署へ事あるごとに訪れ、寄付や激励を行なっている)
令和5年(2023年)に迎える80歳の誕生日を以て歌手生活から引退することを明らかとしているが、歌手としてのラストソング『この道を真っすぐに』もまた、警察官らへの応援ソングとなっている。この『この道をまっすぐに』にも、『この世を花にするために・この道』が収録されている。
特型警備車の導入
安田講堂事件以前にも、輸送警備車をベースとしたバス型の『放水警備車』や、機動性が高い小回りの利く小型トラック型の『遊撃放水車』が配備されていたが、旧式で故障が頻発していたことや、ノズルやポンプ等の形状・性能が実態にそぐわず事件前後から改善点が挙げられていた。
一例として、エンジンの性能が低く、PLO(吸水動力伝導装置)で放水銃と繋いでも、水圧が高められず、学生が構築したバリケードや雨戸、ベニヤ板などを突き破れないという欠点があった。
このため、消防用の水槽付ポンプ車をベースとした、最大12気圧放水が可能な『高圧放水車』の配備を要請していたが、予算措置がつかず安田警備には間に合わなかった。
(なお、この高圧放水車はその後、幾度か更新され、警視庁第一機動隊に配備された3代目の車両は東日本大震災における原発事故の際、燃料棒冷却のために出動。現在の車両は4代目となる。)
高圧放水車のほか、屈折はしご車をベースとした『高所放水車』や、『排煙車』、『バリケード撤去車』の配備も進めた。
(排煙車:いすゞ製の広報車に可搬式の排煙・発泡装置を取り付けたもの。火炎瓶火災の鎮火や排煙、さらには泡放射で暴徒に不安を抱かせる心理的作戦をも目的にしていたとされる。)
これらに加えて、さらに凶暴化する学生運動に対処すべく、佐々は本格的な警察用装甲車である『特型警備車』の導入を推進。
特型警備車は三菱重工によって製造され、幾つかの形式で試作・配備されたが、本格的に配備されたのは〝F-3型〟と呼ばれる車両である。
避弾経路を考慮したり、車体転覆を阻止するために鋸板状のスカート板を装備したりと、本格的な装甲車両として導入されたものの……。実際に配備された頃には学生運動が沈静化したこともあり、万里の長城・戦艦大和に並ぶ天下の三大無用の長物とまで嘲笑された。だが、後述するあさま山荘事件の際、散弾銃やライフル銃から発射される弾丸が雨のごとく降り注ぐ中でビクともせずに強行偵察を完遂したことから、有意性が証明され、後継車両配備に繋がった。
当初は放水銃や鋸歯状のスカートを装備していた特型警備車だったが、最低地上高〝グランドクリアランス〟の低さが課題となり、F-7型(小型)特型警備車(コマンドカーとも呼ばれる)も登場。
昭和62年頃には、後継のPV-1型とPV-2型の配備が開始。PV-1型は大型特型警備車とも呼ばれ、放水警備車と良く似た外観に防弾板装備の上部ハッチを備えた仕様である。一方、PV-2型は中型トラックをベースに、放水銃等を排した仕様となっている。現在は後者のPV-2型特型警備車が主流である。
土田・日石・ピース缶事件
激動の990日とも称される、第二安保警備を終えて昭和45年(1970年)に佐々は、警視庁警務部参事官(人事第一課長事務取扱)に着任。
人事第一課長(警務部参事官が兼任〈事務取扱〉することが多い)はキャリア組でも将来の長官・総監候補と目される人物が着任することの多いポストでもある。
在任中、婦人警察官の制服改良を行ない、ドゴール帽や、防寒対策としてブーツを正式採用するなどした。
だが、乱世の波は容赦なく襲いかかる。
12月18日未明、板橋区赤塚3丁目にある志村署(当時。現在は高島平署に配置換)上赤塚派出所が拳銃強奪を目的とした男3名によって襲撃される事件が発生。
この事件では、鉛管入りビニールホースで滅多打ちにされた巡査が重傷を負ったほか、拳銃保管庫にまで迫った暴漢に対し、相勤である巡査長が拳銃を応射、被疑者1名が死亡する事態となった。
人事一課長として、警察官の処分も担当する佐々は事件の報を自宅で受け、現場へ急行。拳銃を応射した巡査長に直接、聴取に当たっている。
- 死亡した暴漢は刃物を把持し、拳銃保管庫をこじ開けようとしていたこと
- 巡査長の静止も聞かず、なおも向かってきたこと
- 巡査長は警告の末、威嚇射撃として2発発射したものが運悪く命中したこと
- 立番の巡査をめった撃ちにする暴漢に対しても警告を行い、脚部を狙って3発発射したこと
これらの現場状況に加え、応射した巡査長も1年前、暴漢から斬りつけられて負傷した経緯があることから佐々は拳銃使用は適正であると判断。憔悴する巡査長に対し「これは懲罰が目的ではないし、自分が同じ立場でも拳銃を発砲したに違いない」と声をかけている。
直後の記者会見でも佐々は「拳銃使用は適正である」という主張を覆さなかった。やや遅れて入室した警務部長・土田國保もまた、佐々を庇う形で「佐々課長のいうとおり。拳銃使用は適正である」と発言。より上位者の発言を掲載するという新聞報道上の暗黙のルールから、上赤塚派出所襲撃事件に対する談話は警視庁警務部長・土田國保名として発表された。
1年後、死亡した暴漢に対する復讐心を燃やした犯行グループは、警察関係者に対する報復として爆弾テロを実行。佐々に代わって実名が報じられた土田警務部長宅にも爆発物が届けられ、夫人が爆殺、四男が全身に破片を受ける重傷を負う事件までも発生した。
(夫人の遺体は肩から上が吹き飛んでいた有り様だったという……)
夫人が爆殺されるわずか数十分前、佐々は夫人と電話で会話しており、当時の手帳には赤字で大ショックと記しているほか、土田警務部長が会見場に入室した一件に関し自らの代わりに犠牲となってしまったと悔いていたこともあった。
連合赤軍あさま山荘事件
昭和46年(1971年)には、富田朝彦警備局長の意向により警察庁警務局監察官兼警備局付という変則人事の発令を受ける。これは、当時頻発していた極左暴力集団によるさまざまな事件の陣頭指揮や、情報収集を行なうためになされたものであった。
(警備局付という人事自体は当時もよくあることだったが、警務局監察官との兼任は佐々が初である)
昭和47年(1972年)2月、長野県軽井沢において連合赤軍メンバー5人が、管理人の妻を人質に取りあさま山荘事件を起こす。
後藤田正晴警察庁長官の特命により、佐々は『警備実施および広報担当幕僚長』として、警察庁および警視庁の面々と共に長野県に派遣されることとなった。
クレーン車に括り付けた鉄球により、山荘の階段を破壊するというアイディアは他ならぬ、佐々自らの提案であった。
元々、この鉄球作戦は安田講堂事件に際し、構築されたバリケード撤去のために考案するも安田講堂が指定文化財であるために却下された経緯がある。あさま山荘事件においては鉄球の重量、クレーン車の部署位置、スウィング角度などを設計士に依頼することで、新たに焼き直されることとなった。
作戦計画では、鉄球で山荘の階段および屋根を破壊したのち、鉄球を〝グラップル〟(鉄の爪)に取り替え、屋根板を完全に撤去。木製渡板を架橋し、警視庁第二機動隊および長野県警機動隊で構成される〝決死隊〟が挟撃するものとなっていた。
だが、狭い操縦室に乗り込んだ機動隊員がバッテリーを蹴っ飛ばしたためにクレーン車は停止し、作業が中断。空いた大穴のため、却って犯人側からの狙撃が激化することとなってしまった。
あさま山荘事件においては、身代わり志願の民間人男性1名が死亡し、警視庁の機動隊員2名(第二機動隊長・内田尚孝警視長と特科車両隊本部付中隊長・高見繁光警視正)が殉職。さらに、顔面を撃たれ、右眼失明の重傷を負った大津高幸巡査も事後殉職されたほか、未だに多くの警察官が後遺傷に苦しんでいる。
(なお、余談として、重傷を負った大津隊員や二機・上原中隊長は、警視庁創設百年記念式典の砌、御臨席された天皇・皇后両陛下から『公務災害傷病職員代表(9名)』としておことばを賜っている)
後年、あさま山荘事件を特集したTV番組にて佐々は「これは私の責任によって警備がなされ、私の責任によって部下が殉職しました。(中略)なんとか死なせずにやる方法がなかったのか……」と号泣しながら悔やんでいる。
爆発物処理技術・機材調査
警備局付警務局監察官在任中、佐々は後藤田長官の特命を受け、警視庁外事第一課長の三島健二郎警視正とともに、米・英・独・仏・伊の五カ国を中心に海外へ出張、欧米諸国が取り入れる爆発物処理技術調査を行なった。
(ちなみに、当時の爆発物処理危険手当は1件140円である)
渡米した二人は、現地にて在ワシントン日本国大使館の新田勇一等書記官(警察庁出向)と合流。FBIやシークレットサービス、ニューヨーク市警などを視察するなか、ワシントン市警を視察した折、〝ボンブ・スクォッド(爆発物処理班)〟の刑事2名の案内により〝リクイッド・ナイトロージェン(液体窒素)〟による冷却処理法を見聞。爆発物処理車やノズル付液体窒素ボンベなど、各種装備資機材を撮影。
さらに、英国やドイツでも同様の手法が取り入れられていたことも加わり、日本警察は液体窒素を用いた冷却処理法を正式採用することを決定した。
米国で採用されていた爆発物処理車も〝爆発物処理筒車〟として配備が開始される。日本警察のそれは、本家本元の米国同様、トラック型で格納容器と液体窒素ボンベを搭載しているが、格納容器の形状は球形であった一時期を除き、米国と異なる筒状のものを採用している。
爆発物処理班すら編成されていない当時、危険性の高い解体処理が主流であったが、佐々や三島らの活躍により、爆発物処理技術が向上することとなる。
(のちに三島警視正は佐々の後任の警察庁外事課長を務めたほか、警備局長などを歴任する)
ひめゆりの塔事件
あさま山荘事件ののち、昭和47年(1972年)5月には警察庁警備局調査課長(警視長)、7月に警備課長に着任。数々の事件に対処すべく変則人事を歩んだため、警視長への昇進は同期の中でも最速ではなかった。
昭和49年(1974年)には警備局警備課長に着任。以後、三菱重工爆破事件やクアラルンプール事件など、日本赤軍関連事件の指揮を執ることとなった。
昭和50年(1975年)、沖縄海洋博開会式ご臨席のため、沖縄県へご行啓される皇太子同妃両殿下(明仁上皇陛下、美智子上皇后陛下)の警衛・警備の指揮を執る。
(警察部内では皇族方の警護を〝警衛〟といって区別する)
だが、終戦後20年、特に米国からの返還後間もない沖縄において皇族方に対する感情というのは、今と比べものにならないほど厳しいものであった。
行啓前より、皇太子沖縄訪問反対や、反皇室闘争を繰り広げる過激派によるデモが頻発。
糸満市にある白銀病院においては、過激派2人が両殿下めがけ、スパナや火炎瓶を投擲する事件も起こった。この時は医師らが負傷しながらも過激派と抵抗し、幸いにして御料車への直撃こそ回避された。
しかし、ついにひめゆりの塔において、過激派による犯行を許してしまう。過激派は女学生らの御霊が眠る洞穴(ひめゆりの壕)内に数日前から潜み(この時、食糧などを洞穴内で食い散らかしている)、慰霊に訪れた両殿下ならびに、案内するひめゆり会・会長めがけ火炎瓶を投擲。
皇宮警察側衛隊の皇宮護衛官が飛びかかり、ひめゆりの壕内に転落し、名誉の負傷をしながらも過激派2名は取り押さえられることとなった。
幸い、両殿下はもとより、ひめゆり会の会長氏や、報道関係者らに怪我はなかった。
(妃殿下の第一声はひめゆり会の会長氏を気遣うものだったという)
警備前、佐々らは機動隊員の増強や、ひめゆりの壕内の検索を主張したが「県民感情を逆撫ですることになる」として沖縄県関係者らによって却下された経緯がある。のち、沖縄県知事自ら、謝罪に訪れたという。
三重県警本部長時代。風日祈宮放火事件
『ひめゆりの塔事件』を受け、当時の沖縄県警本部長は辞意を表明するが、佐々は「キミが辞めてはいかん」と必死に慰留。当時の県警本部長は、佐々が警察大学校助教(警部)を務めていた頃の後輩学生で、柔道の特訓相手になったこともあるなど、先輩・後輩の間柄であった。
また、皇太子殿下からも「警備関係者を処分しないよう」とのお気持ちも表明された。
結局、県警本部長に代わり、沖縄海洋博警備の責任をとって佐々は辞表を提出したが、受理されず、警察庁警備局警備課長から三重県警本部長へ転任。
入庁年次的に県警本部長を一度は務めているのが通例だが、変則人事を歩み続けた佐々にとり、左遷人事ではあるものの、これが最初にして唯一の県警本部長経験であった。折しも、伊勢神宮に御参拝される天皇皇后両陛下(昭和天皇および香淳皇后)や、国体開会式に参加される皇太子同妃両殿下の警衛・警備が迫っていたこともあり、着任早々にして陣頭指揮を執ることとなる。
伊勢神宮では、極左過激派が火炎瓶を投擲する『風日祈宮〝かざひのみのみや〟放火事件』が発生するなど、沖縄同様、極めて厳しい警備情勢下ではあったが、三重県警のベテラン警察官らとともに両陛下行幸啓や、両殿下行啓に関する警衛・警備を完遂。このほか在任中、伊勢自動車道を管轄する高速隊にフェアレディZのハイウェイパトカーを配備するなどしている。
防衛庁出向、内閣安全保障室長へ
防衛官僚としての道のり
昭和52年(1977年)、成田闘争を巡って当時の警察庁幹部と対立。〝数年の約束〟で警察庁から防衛庁(現・防衛省)へと出向することとなった。
(結局、警察庁へ復帰することはなかった)
防衛庁長官官房審議官として、当時、不人気で押しつけ部署であった防衛白書の作成を担当する。翌・昭和53年(1978年)には教育担当参事官に就任、やがて人事教育局長、防衛庁長官官房長、防衛施設庁長官などを歴任。
防衛庁時代には、ブルーインパルス墜落事故や大韓航空機撃墜事件などの対応にあたったほか、防衛施設庁長官時代には、三宅島NLP問題の対応にも奔走している。特に三宅島問題では皇太孫殿下から直接〝おことば〟をかけられ、具体的な事業内容について〝御進講〟することもあった。
国会答弁のコツ
この頃になると、政府委員として、国会答弁の場に立つ機会が激増しており、数々の会議録にてその名を見ることもできる。
発言者名〝佐々淳行〟で検索をすると、該当会議録は163件、発言回数は実に1021回に及ぶ。
なお、衆議院と参議院において、質問時間の計測方式がそれぞれ〝往復方式〟と〝片道方式(原則)〟に違いがあることから、佐々はこれに目をつけ「衆議院はアメフト、参議院はピンポンと〝長短自在〟の答弁を行ない、質疑者に言質をとらせなかった」と述解している。
- どういうことかというと──
- 衆議院:答弁時間も質疑時間に含める往復方式
- つまり長々と答弁すればするほど、質疑者の質疑時間を思う存分に減らせる。「〇〇議員ご質問にありましたように、〇〇の事柄に関しましてご説明を申し上げます」などと馬鹿丁寧に答弁すれば……
- 参議院:原則として答弁時間は質疑時間に含まない片道方式
- 端的に「違います」などと言質を与えぬ答弁を行う。質疑者が憤慨する間にも時間は経過するので、結果的に質疑時間を減らせる。
- 衆議院:答弁時間も質疑時間に含める往復方式
第91回国会 衆議院 予算委員会 第3号 昭和55年2月1日
往復方式の一例として、リムパック合同演習をめぐっての日本共産党・不破哲三衆院議員に対する答弁が挙げられる。発言番号118号が件のそれだが……非常に長く、不破議員をして「長い答弁でしたが」と言わしめたほどである。
別のある時には、予算委員長から佐々が指名されるも、質疑側から「あなたなら要らない」との声が上がったこともあった。
第91回国会 衆議院 予算委員会 第2号 昭和55年1月31日
同じくリムパックをめぐる、日本社会党・多賀谷真稔衆院議員に対する答弁(発言番号82号)では「時間がないのに長い演説をされても困る」とまでいわれている。
第201回国会 参議院 予算委員会 第1号 令和2年1月29日
近年では、参議院答弁の場において、河野太郎防衛大臣が福島瑞穂参議から〝財政法第29条〟を読み上げるように求められ、同様の高速答弁を行なっている。
(発言番号493号以降)
初代内閣安全保障室長へ就任
昭和61年(1986年)7月、中曽根内閣にて新設された内閣官房内閣安全保障室の初代室長(内閣審議官)に就任。同時に、内閣総理大臣官房に設置された内閣安全保障室長(総理府事務官)も併任している。
安保室は、中曽根内閣で進められた『行政改革』の一環として設置された〝内閣五室〟の一つであった。この内閣五室を率いる骨太のキャリア官僚は内閣五室長と呼ばれ、中曽根首相や後藤田官房長官にも直言・諫言することで知られていた。
【注・発足当時】
この5室長のなかで、もっとも年長格であった佐々(肋膜炎治療で入庁が1年遅れたため、同期生らより1つ歳上となる)は兄貴分となり、安保室発足以降、旧地である他の室長らとともに「互いに領空侵犯し合おう」と語り合い、各省庁間にある縦割り行政の壁を越えて職務にあたった。
在任中、三原山噴火に対応したほか、防衛庁とともに、有事法制(第三分類)制定に向けての各省庁間での所掌業務仕分けなどを担当。後者に関しては、自衛隊法第103条以下の除外規定(いわゆる有事法制)制定時の叩き台となった。
そのほか、警視庁第六機動隊内に編成されていた特科中隊〝SAP〟を後藤田官房長官とともに(ゴルフの打ちっぱなしに行くフリをして)極秘裏に視察している。いうまでもなく、このSAPというのは、特殊部隊SATの前身部隊である。
大喪の礼警備
昭和62年(1987年)秋、旧知の記者から「毎晩、宮内庁病院の医師・看護師らが参内しているのを皇宮護衛官が目撃している」という情報を耳にした佐々は、後藤田官房長官に念のため報告。
当初、畏敬の念からか後藤田は「陛下に万が一など存在しない。陛下は絶対に死なん」と追い返した(これには佐々も珍しく憤慨)が、翌朝一番、謝罪と共に〝密命〟が下り、限られたメンバーによる水面下での大喪の準備に取り掛かった。陛下御不例が公式に報じられる遥か以前のことである。
竹下内閣が発足し、それまでの中曽根・後藤田体制から、竹下・小渕体制へと移り変わるなか、極秘裏に計画は策定されていった。元号の制定が的場内政審議室長を中心に行われるなか、佐々は警察時代の伝手を活かし、警備計画策定に取り掛かった。こうした計画策定が終了したのは昭和63年(1988年)暮れであった。
昭和64年(1989年)1月7日。昭和天皇は吹上御所にて崩御。
国民の多くが悲しみに包まれる一方、〝反皇室〟を掲げる過激派によるゲリラ事件が頻発するなか、佐々らは大喪の礼の完遂に向けて奔走。
大喪の礼当日は、青山通り・外苑前交差点ではお車列に突入を図る男がいたが、随行ハイヤーに接触する寸前、警戒中の4機隊員に取り押さえられている。さらに、革労協によって中央高速・深大寺バス停付近の法面が爆破されるなど、決して平穏とはいかなかったが、大警備もあって行事遂行に影響はなかった。
(警察庁集計によると、当日は全国26都道府県で反対集会が行われ5,190人の過激派ゲリラが参加。軽犯罪法違反等で6件、10名が逮捕されている)
その後、事務処理を終えたのち、平成元年6月末日を以って退官。
退官後 危機管理評論家として
大浪人の道
佐々の役人人生としては、通算歴こそ45年に及ぶ一方、どの省庁でも永年勤続表彰基準に達する前に転出しているため、ひとつも〝永年勤続〟に関する賞状は受賞していない。
退官に際し、多くの政財界幹部から「どの省庁でも、どの公社でも名前を言って。次官級でも顧問級でも椅子は用意するから」と、天下り先を用意する声も上がったほか、自社の顧問として招聘したいという声もあった。だが、佐々はそれを断り、渋谷区に個人事務所を開設し、「危機管理評論家」として「政治評論家」として「作家」として、いわば大浪人として生活する道を選んだ。
また、与野党問わず「公認候補にするから出馬してくれ」と政治家への転身を求める声も数多く上がったが、全て断っている。
特に細川護煕率いる〝日本新党〟が結党した際には、参議院熊本選挙区からの出馬が(佐々本人の意図しないところで)かなり進んでいたらしく、警察庁時代からの上司である後藤田正晴をして『熊本で友房の孫じゃ、弘雄の次男じゃいうたら当選間違いなしじゃろ。なんで断った!』と言わしめたほどである。
(佐々の祖父・佐々友房も、父・佐々弘雄も熊本県選出の国会議員だったが、政治家の現実を目の当たりにしているために断ったという)
危機管理評論家として
平成2年(1990年)に勃発した湾岸戦争や、平成3年(1991年)のソビエトクライシス以降、日本国内でも危機管理への関心が一挙に高まるなか、佐々もテレビ番組等に解説者やコメンテーターとして出演する機会が増えてゆく。
有名な話だが、危機管理という単語自体、英語にある〝クライシス・マネジメント〟に相当する訳語が日本語として存在しなかったことから、佐々が作ったともされ、多くの企業や自治体、大学などからの講演依頼が増加し始める、
平成5年(1993年)には慶應義塾大学の非常勤講師に就任し、『日本の安全保障行政の現場から』という講義を開始した。この講義内容は都市出版社より『ポリティコミリタリーのすすめ』として刊行されるに至った。
平成7年の阪神・淡路大震災に際しては、後藤田正晴の特命により、災害対応に不慣れであった村山首相を補佐したほか、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件に際し、警察庁や警視庁関係者らに助言。
特に、当時の警視庁捜査第一課長・寺尾正大警視正は、佐々が警備第一課長を務めていた頃の秘書役であったことから、直接指導もしている。
当初、警察庁では全国の警察本部と連携をとり、4月に行われる統一地方選明けに強制捜査を行う指針を立てていた。
だが、警視庁管内で実際に事件が発生したことを受け、警視庁の刑事部は捜査第一課を中心とした強制捜査方針を独自に立て、警備部の機動隊と共に出動する勢いになった。寺尾一課長が佐々の下を訪ねたところ、佐々は寺尾に対し「充分な装備もない状況で部隊を出すのは危険である。もし、殉職者が出たら、君も私と同じように十字架を背負うことになる」と、再検討を促した。
強制捜査日が数日遅れたことから、地下鉄サリン事件の犯行を許してしまったとの指摘もあるが、一方で生化学防護服を陸上自衛隊から借り受けたり、各地の警察本部からかき集めたりする準備期間を作ることにも成功している。
晩年・コメンテーターとして
平成13年(2001年)からは、日本テレビ系列の情報番組『ズームイン!Super』に出演し、安全保障・危機管理に関する解説を週に一度生放送で行なった。このほか、米国同時多発テロから1年目を迎える特番に際しては、中継機材の不具合もあり、辛坊治郎キャスターと共におよそ1時間の解説も行なった。
テレビ朝日系列では『TVタックル』にご意見版として出演し、〝ハマコー〟こと浜田幸一元議員や、三宅久之元毎日新聞記者らと安全保障・危機管理に関する論説を張ることもしばしばだった。
また、フジテレビ系列の『日本のよふけ』に出演し、安全保障に関し、得意のユーモアを交えて話す光景も見られた。
佐々の著書のうち、文藝春秋から出版された『連合赤軍「あさま山荘」事件』は、原田眞人監督により『突入せよ!あさま山荘事件』として映画化もされている。
最晩年
言葉が出辛くなったことと、手術をしたことが契機となり、平成25年(2013年)には個人事務所を閉鎖。以降は講演活動やテレビ出演ではなく、執筆活動が主となっていた。
平成30年(2018年)10月10日──平成から新元号令和への改元を待たずして老衰のため死去。87歳という波瀾に満ちた生涯に幕を下ろした。
死去の報を受け、菅官房長官は、次のようなコメントを発表した。
「突然の訃報に大変驚いている。佐々氏はあさま山荘事件など世間の耳目を集めた警備事案について陣頭指揮を執ったほか、初代の内閣安全保障室長を務めるなど、危機管理のプロとして大いに活躍された」
「『危機管理』という言葉が多くの国民に知られるようになったのは、佐々氏の功績だった思う。佐々氏の功績をしのびつつ、ご冥福をお祈り申し上げたい」
NHK政治マガジン 佐々淳行氏死去 警察庁であさま山荘事件など担当
死後(11月15日付)、正四位に叙された。
交友関係
いわゆる保守派として知られた佐々だが、交友関係は左右問わず、政財界、芸能界、花柳界と幅広いものであった。
浜田幸一:元自民党衆院議員〝ハマコー〟
佐々が防衛庁に出向していた頃からの付き合い。東芝ココム事件の直後には「佐々さん、通産の官僚と話してると(馬鹿が)うつるよ。僕は通産官僚と話した後には、睾丸を粗塩で揉むようにしてるんだ」などと話しかけ、佐々を唖然とさせたという。
佐々は著書『私を通りすぎた政治家たち』にて、浜田のことを『憎めない政治家』と称している。浜田が防衛庁政務次官時代、毎朝、警衛(立番)にあたる檜町警備隊の隊員に敬礼をしていたことや、殉職者追悼式の際、貧血を起こした家族のもとにスッとにじり寄り、滑らかな動作で介抱したことなどが記されている。
橋本龍太郎:元総理
同じく佐々が防衛庁に出向していた頃からの付き合い。佐々が安全保障室長に就任した際には、直言をする佐々の性格を気にかけた橋下から直接電話がなされている。
「おめでとうというべきか、お気の毒というべきか、ご苦労さんというべきか」
先述した伊豆大島・三原山噴火災害の際、運輸大臣であった橋本自らが海上保安庁の制服を着て、陣頭指揮に当たっていた。
総理就任後、橋本が多忙を極め、心労を気にした秘書官が佐々ら旧知の官僚を取り継がなくなった時期がある。そんな最中、偶然にも羽田空港で橋本と佐々が遭遇。橋本は前述の経緯を知らなかったとみえ、佐々に対し「佐々さん、この頃ちっとも顔、見せてくれないじゃない。仕事関係を抜きにした友達だと思ってたのに、つれないなァ」と冗談まじりに発言。
佐々は「でもお忙しいとか、日程が詰まってるとかで、中々取り次いでくれないんだよ」と応酬。
これに対し橋本は「酷いなァ、それでも掻い潜ってきてくれるのが友達ってもんじゃない?」と返している。
小渕恵三:元総理
佐々が安全保障室長を務めていた頃の直属の上司であるが、小渕が二十代の頃から交流があり、橋本以上の友人関係にあった。小渕が官房長官(ご存知、平成おじさんの異名を取る)を務めていた頃、官房副長官と官僚らが不仲になった際、取りなす場を作り、小渕自身が仲裁に入ったこともあった。
後年、小渕が首相となった際、佐々のもとにも安全保障の指導を仰ぐブッチホンが入電。当初、佐々のもとには小渕の秘書官から電話が入り、佐々は「一応、こっちは先生だから、都合を聞いてほしいなぁ」と旧知である秘書官に冗談半分のイジワルを述べた。
数十分後、今度は小渕から入電「ごめん、ごめん。佐々さん先生だもんね。先生の日程聞けってのは、至極当たり前の話だもの……それで、いつならよいかな?」
直接電話を受け、官邸へ出頭したという。
後藤田正晴:元副総理
警察庁時代から〝特別権力関係〟にあった人物である。
佐々にとり後藤田は警察庁(内務省入省組だが)の大先輩にあたる。かねてより「昭和十四年組の後藤田」の名は轟いていたらしく、直接の面識がない頃から認識していたという。
ケネディ調査以降、東大安田講堂事件やあさま山荘事件など、数々の事件において後藤田の指示を受け、対処に奔走。退官後も、事あるごとに後藤田から要請を受け、官邸等に赴き首相や閣僚らに安全保障について助言を行なった。
治安対策に関し、佐々と後藤田の見識はおよそ一致していた一方、安全保障や自衛隊をめぐる諸問題、憲法問題に関しては対立したり、激論を交わしたりすることもあった。
特に、米国同時多発テロを受け、佐々が安倍官房副長官に対し「テロ特措法」に関する意見具申をした際には烈しく対立している。
「君だろう。安保問題で安倍晋三に色々吹き込んだのは。いくさになったら、君と岡本行夫(内閣官房参与)が戦犯1号、2号だ」
(なお時折、巷間で後藤田の発言を改変し、『安倍晋三だけは絶対に総理にしてはいかん』としたものが見受けられるが、正確には野党の某議員を上げたもので本来の発言ではない。)
後藤田は佐々に対し「キミ、ちょっと行ってな」と下命することも多かった。先述した〝ブッチホン〟にもじり、佐々は著書内で後藤田からの電話を〝ゴット・フォン〟と称している。歌舞伎町の治安対策に関するゴットフォンが後藤田との生前、最期の会話だったという。
石原慎太郎:元参議
警視庁警備第一課長を務めていた頃にまで遡る。日大封鎖解除警備の最中、学生が投下した人頭大ものコンクリブロック片を受けて第五機動隊・西条秀雄巡査部長が殉職(死後、警部へ二階級特進)する事態となった。
警察葬が終わってしばらく経った頃、石原が第五機動隊舎に弔問へ訪れたことが二人の所縁のはじまりである。未亡人に挨拶を終え、線香を上げた後、西条警部の命を奪った投石を目の当たりにした際、シャイである石原が目を何度となく瞬きしながら「こんなのを放ったら隊員は死ぬに決まってるじゃないですか……何を考えてんだ、アイツらは……」と絶句したという。
やがて石原が都知事選挙に立候補した際、佐々は選対本部長を務め「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」のキャッチコピーを考案した。
このほか、テロ対策特殊装備展などに、度々2人で(正確には随行員を伴って)訪れている。
安東仁兵衛・元社民連政策委員長〝アンジン〟
元々は、佐々が東大生時代、学内で開かれた左派系集会で反対演説を打ったことがキッカケである。安東は日本共産党所属歴を持ち〝アンジン〟の名で知られる左派系学生であった。
左派系集会でたった一人、反対演説を打った佐々の姿が安東の目に留まり、安東の方から佐々に声をかけた。
安東は「先ほどの演説を拝見したが、あれほどの集会でただ一人反対意見を述べる勇気は評価する。だが、君の考えは間違っている」と述べた。これに対し佐々は「失礼ですが、あなたのお名前は」と返し、安東が名乗ると「そうですか、私は佐々と申します」と言い残し、安東が意表をつかれる中、その場を後にした。
(なお、佐々はこのとき、安東のことを噂程度にしか知らなかった)
数十年を経て、佐々がこの時のことを雑誌に「武闘派〝安仁〟との対峙」と記したところ、安東から「失礼だが、俺は構造改革を主張しており、暴力革命を主張したことはない」とコンタクトがあり、佐々は訂正文を寄稿。
(事実、安東は日本共産党との路線の違いから離党するに至っている)
これが縁となり、佐々と安東は数十年ぶりに再会。片や治安維持の警察官僚として、片や左派系の論客として、全く真逆の道を歩んだ両者だが、互いのことを尊敬しあっていたという。
肺ガンで早逝した安東の葬儀に佐々が参列したのみならず、後藤田正晴までも参列したことで会場は騒然に包まれた。
佐々曰く「ボク、安仁と学生時代からの友達なんだよ」
三島由紀夫:作家
佐々の実姉・紀平悌子が、三島の実妹と同級生であったことから、佐々と三島は個人的な親交を持っていた。
佐々が警備第一課長として、安田講堂事件の対処に当たっていた際には、三島から「学生たちが飛び降り自殺を図らぬよう、配慮されたし」といった旨の電話が入ったこともあった。
三島が楯の会を設置した際には、警視総監らの指示により、実際に警視庁機動隊の訓練を見学させたという。三島が「佐々さん、私たちの活動の機会、なくなりましたね。恨みますよ」と言ったのに対し、佐々は「三島さんこそ、文筆の道に戻られてはいかがですか?」と勧めたが、これ以降、親交が途絶えるようになった。
三島が東部方面総監室に立て篭もる三島事件を起こした際、当時の土田國保警視総監の指示により、佐々は説得すべく駆けつけたが、時すでに遅し──すべて終決した後だった。
佐々はこのとき、血液の染みた絨毯を踏んだ感触が忘れられないと著書で記している。
フレデリック・フォーサイス:作家
国際的に愛読されるスパイ小説や軍事小説の作家である。フォーサイスは以前、フジテレビ系列で日本舞台の映画として制作予定であった『ハイディング・プレイス』(主演は高倉健が予定されていたとされる)の原作本を執筆するにあたり、警備警察や外事・公安警察に精通した人物への取材を試みていた。
日本側制作関係者から佐々(当時は防衛庁長官官房長)を紹介され、実際に取材を行なったところ、佐々自身もフォーサイスのファンであったため快く許諾。結局『ハイディング・プレイス』自体、映画化されることはなかったが、骨太の小説として出版されることとなる──
だけに留まらなかった。
フォーサイスが執筆した小説『第四の核』(もちろんフィクション)にとある日本人警察官が登場する。
役どころとしては、主人公に対し、ソ連のスパイをそれとなく教える日本の警察庁の警視──なのだが、アサマ山荘で起こった事件に出動していたり、名前自体がサッサ警視だったり……。
フォーサイス曰く、取材に対する謝辞として名前を借用したのだそう。フォーサイスから佐々にサイン本も贈呈されている。
〝To the catcher From the watcher〟
「私、見る人、あなた、捕まえる人」
その他エピソード
佐々メモ
自他共に認めるメモ魔であった佐々は、小・中学生の頃に書き始めた日記に始まり、事件・事故・会話などをおよそ90冊もの〝佐々メモ〟(そのほとんどが能率手帳)に認めていた。
佐々自身の記憶力がずば抜けていることもあるが、こと細やかに記された佐々メモは、のちの執筆活動や、討論番組に出演する際などに活用されている。一旦、名刺やチラシの裏などに会話内容などを記し、夜1時間ほどかけて能率手帳に整理することを日課としていたようだ。
人物評
出る杭は打たれるの言葉通り、毀誉褒貶が大きく割れる人物でもある。
佐々が『危機管理のノウハウ』を出版し、ベストセラーとなった際のことだが。佐々は印税で「危機管理のウハウハ」と、部下たちを呑みに連れたり、食事を奢ったりしていた。これに対し非難の目を向けた人物がいた一方、後藤田官房長官は「佐々は自分の金で部下たちを奢っているのだから、文句を言われる筋合いはない」と庇ったという。
「自分の手柄のように語り、エリート意識が目立ちがち」という文章にまつわるものや、左派系識者などからは「体制派の人物。国家権力の手先。右翼」などと主張や政治思想にまつわる批判の声もある。
警察関係者、防衛関係者などからも「話を盛っていることはある」と前者のような批判の声も散見される。一方で「とかく後ろ指を指されがちであった機動隊の活躍を詳らかにしてくれた」というものや「安全保障・危機管理にまつわる関心を深めることに繋がった」などと評価する声も多い。
警備第一課長時代、機動隊の陣頭指揮を執るにあたり新たに出動服上下とヘルメット、警備靴などが支給されたが、「現場の隊員たちがヨレヨレの出動服を着ているのに、サラピンの出動服を着るわけにはいかない」とロッカーにしまい込み、背広姿で現場に赴くほどだった。
(当時の報道写真にも、年頭部隊出動訓練や機動隊観閲式などの儀典行事では制服を着用しているが、警備出動時には背広姿であったことが記録されている)
「イチカチョウがヘルも被らずに来てるぞ!怯むな!前へ!」と現場機動隊員らの士気を高させるのに繋がった一方、上官たちからは苦言を呈されている。
特に秦野章警視総監は、次のように説諭している。
「警備課長が機動隊と同じことやってどうする。皆んなと同じことやってるって、いい気分になるだろ?隊員らの評価は上がるだろうが、現場で隊員が〝肉体的〟に傷つく一方、お前は本部で〝政治的〟に傷つくんだ」
(佐々は「誤れる現場指揮だった」と猛省している)
『現場主義者』である佐々は、第一線に赴くことも多く、部下たちからの評判は好意的なものが多かったようだ。
ハングリー精神
佐々が終戦を迎えたのは15歳(中学3年生)であった。
コーヒー板に砂糖をふりかけた代用チョコレートや、米軍レーション。メリケン粉に砂糖を混ぜて冷やした代用アイスクリーム。サッカリンと重曹で作った代用サイダーなど……。食糧が配給制となるなかで、なまじ本物の味を知っているがゆえ〝代用食〟が何より辛かったと吐露している。
父・弘雄はヤミ物資に決して手を出さず、わずかな配給物資と、自宅の家庭菜園で栽培した野菜・根菜類、佐々が趣味の空気銃による鳥撃ちで仕留めた野鳥類が一家の胃袋を支えていた。
一度、弘雄が配給の〝鮭缶詰〟を前にして「せめてこの缶詰を1人1個でよいから食べたいね」といったことが、鮮明に焼き付いていたという。
そんな佐々が初月給で購入したのは、母親や妹への贈り物のほか、目黒区にある『維新號』の肉まんと餡まん、近所の鰻屋のうな重であったことを著書『目黒警察署物語』内で記している。
趣味・趣向
本人曰くガンマニアであり、十代の頃には友人から借り受けた空気銃での鳥撃ちや、自宅に出没したネズミ退治に没頭。前者に関しては、食糧難に見舞われた戦後動乱期において、佐々家の食卓の大きな支えとなった。尾長鶏や鳩など、さまざまな野鳥を狙撃し、食したものの、カラスに関してはあまり美味ではなかったようだ。
警察大学校時代には、拳銃射撃で三つ葉のクローバーを作るなど〝中級〟を収めたというが、第一線勤務が続くなかで腕は衰え、以前のように射撃訓練で高成績を出すことはなかった。
コインコレクターでもあった。
(これを歌った瞬間、夫人が『それで、私たちこれからどうするんですか?』と返すのがお約束だったそうだ)
このほか、自他ともに認める愛犬家であり、自宅ではラブラドールレトリバーを飼っていた。戦後、狂犬病対策で数多くの野犬が保健所によって処分されるのを目の当たりにした際には、流石の佐々も心を痛めたという。
ホーンブロワー物語
英国海軍の軍人・ホーンブロワーを主人公に据え、17歳で士官候補生として着任し、数々の試練を乗り越え、海軍元帥にまで上り詰める物語である。
佐々は幼少期を『六男二組の約束』、青年期を『焼け跡の青春』、新米警部補時代を『目黒警察署物語』などと記してゆき、自らの危機管理人生をホーンブロワー物語になぞらえていることを著書内で明らかにしている。
語録
- 悲観的に準備して楽観的に対処せよ
- 最悪に備えるのが危機管理である
- どちらも、佐々が事あるごとに主張したものである。大きく構えて、小さく備えることが肝要であり、兵力の逐次投入を事あるごとに戒めていた。
- 突入した特攻隊員は神様です。しかし突入させた連中は最低です。
- Never Say Never〝絶対ないと絶対言うな〟
- 記者会見に関するノウハウである。別のあるときには「分かりませんと言う勇気を持て」と主張している。
- つまり、不祥事や有事が発生し、トップが記者会見を行なった際、予想外の質問がなされても、事態が把握できていないのであれば無闇に発言すべきではない──というものだ。情報が二転三転することによる現場の混乱や被害の拡大を戒めたものである。
- 記者会見に関するノウハウである。別のあるときには「分かりませんと言う勇気を持て」と主張している。
- パニックの特効薬は笑いである
- 指揮官たるもの、笑って構えてくれないと困る。
- 旧海軍の『士官心得』にあった同様の一節をアレンジしたもの。ストレスを発散しなければ、精神は崩壊をきたし、思わぬ事故につながることも多い。
- 数々の事件について笑い話を交えながら語る佐々に対し「不真面目だ」との非難の声もあったが、上記の理由を理解すれば、考えが転換することだろう。
- 大切なのは何になるかではなく、何をするかである
- 成功した時は上を見ろ、失敗した時は下を見ろ
- 始まったことは必ず終わる。たとえどんなに辛いことであっても、それがいつまでも続くわけではない。じっと堪える。
- 備えあれば憂いなしというが、日本は憂いなければ備えなしだ。
- 知っていても知らなくても「いや、ありがとう。大変参考になった」と言える上司であってほしい。
- 子どもたちが生きていく上での理想像を教えてあげてほしい。
栄典・叙勲・受賞等
(永年勤続表彰はなし。警察時代も幹部警察官であったため、団体表彰はあるが個人表彰はなし)
- 【公的なもの】
- 【民間のもの】
別名
- 縦社会を横に生きた男
- 事件を呼ぶ男
- 危機管理の第一人者、ワード・メイカー
- 首切り朝右衛門
- 大分県警察警務部長時代。
- ダーティーハリー
- スパイ・キャッチャー
- フレデリック・フォーサイスによる。
- 大盾
- サイドベンツのお兄ィさん
- 機動隊の天知茂
- いずれも、佐々が警備第一課長を務めていた頃の部下である機動隊員たちからのもの。
参考文献 主な著書・映像化作品
多数あるため、一部を掲載する。
また本記事を作成するにあたり、参考文献としている。
著書
『東大落城 安田講堂攻防戦七十二時間』
(日本テレビ系列局『日本史サスペンス劇場』特別編『東大落城』原作)
『連合赤軍「あさま山荘」事件』
(東映・アスミックエース『突入せよ!「あさま山荘」事件』原作)
『目黒警察署物語 佐々警部補パトロール日誌』
『焼け跡の青春・佐々淳行 ぼくの昭和20年代史』
『香港領事動乱日記 危機管理の原点』
『菊の御紋章と火炎ビン「ひめゆりの塔」「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」』
『後藤田正晴と十二人の総理たち もう鳴らない〝ゴット・フォン〟』
『私を通りすぎた政治家たち』
『私を通りすぎたマドンナたち』
『私を通りすぎたスパイたち』遺稿
(いずれも文藝春秋刊)
『ポリティコ・ミリタリーのすすめ 日本の安全保障行政の現場から 慶應義塾大学講義録』
(都市出版刊)
『危機管理のノウハウシリーズ』(全3巻)
(PHP文庫刊)
その他多数。
映像化作品
- 映画『突入せよ!「あさま山荘」事件』
- (東映・アスミックエース)
主演・役所広司。
佐々も中盤、映画館の客としてカメオ出演している。なお、宇田川信一氏(演・宇崎竜童)、後田成美氏(演・原田遊人)も同時に出演している。
- ドラマ『日本史サスペンス劇場』特別編『東大落城』
- (日本テレビ系列局)
主演・陣内孝則。
インタビュー場面に佐々本人も登場する。
- ドキュメンタリー『スーパーテレビ報道最前線』特別版『重大事件の真実を刻む・佐々淳行極秘メモ』
- (日本テレビ系列局)
主演・椎名桔平。
インタビュー場面に佐々本人も登場するほか、宇田川信一氏らも登場する。
主演・高嶋政伸。
インタビュー場面に佐々本人も登場する。
【このほか、目黒警察署物語も伊丹十三監督で東映配給で映画化される話もあったという。だが、昭和30年代のロケハンに難航したため立ち消えになったようだ。後年『突入せよ!』として映画化された際、伊丹の息子である池内万作が東野英夫通信専門官を演じている】
その他参考文献
『激動の990日 第2安保警備の写真記録』
(警視庁刊)
『大分県警察史第二巻』
(大分県警察本部刊)
『極秘捜査 警察・自衛隊の対オウム事件ファイル』
著・麻生幾(文藝春秋)
『元県警幹部が明かす 連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』
著・北原薫明(ほおずき書籍)著者は当時、長野県警警備部警備第一課長(警視)。
『あなたの知らない「東大安田講堂事件」安田講堂事件現場統括指揮官「津田武徳」の記録』
著・津田武徳(幻冬社)著者は当時、警視庁警備部参事官(警視正)。
【上記の2氏は佐々の著書内に登場しており、彼らから見た佐々の人物評がうかがえる】
『浅間山荘事件の真実』
著・久能靖(河出文庫)
『海軍の「士官心得」現代組織に活かす』
著・上村嵐(プレジデント社)
『海は語らない ビハール号事件と戦犯裁判』
著・青山淳平(光人社)
『三島由紀夫事件50年目の証言 警察と自衛隊は何を知っていたか』
著・西法太郎(新潮社)