抜刀隊
ばっとうたい
抜刀隊は、明治10年に西南戦争 田原坂の戦いで新政府軍に警視隊として従軍していた内務省警視局職員(後の警視庁警察官)を中心に臨時に組織された白兵戦専門の部隊。元新撰組三番隊組長の斎藤一が所属していたことでも知られる。
その名の通り、隊員の武器は日本刀のみである(抜刀隊を描いた浮世絵では槍を構えている隊員もいるが)。
編制の切っ掛けは3月8日に田原坂の戦闘を二俣台で視察していた薩摩出身の参軍川村純義海軍中将が「こんな砦如きでどれだけ日数と兵を犠牲にした事か。何百名かの決死の士を選び左右より攻撃させれば必ず粉砕出来るというのに、誰かやろうという者はいないのか」と言う内容を呟いた事であった。
その場に同席していた警視隊の上田良貞大警部は自分達がやれと暗に言われていると考え、同じ薩摩出身の川畑種長大警部、園田安賢中警部等と共に征討参軍である陸軍卿山縣有朋に警視隊より剣の腕の立つ者を選抜しての戦線投入を上申し承諾され、11日に編成されたもので、「抜刀隊」という名称は、山縣が、あくまで軍隊ではなく警察官の部隊であるという意味を込めて選んだものである。(徴兵制で平民より軍隊を創設する方針を取って来た山縣としては、ただでさえ兵力不足から士族出身の多い警察官からなる警視隊をも動員している状態で、士族の警察官に手柄を立てさせるのは望ましくなかったと思われる)
西郷軍に奇襲をくわえて、膠着した戦線に一気に突破口を拓く重要な役割を果たした。
一方で、最前線で突破口を拓くのは本来ならば軍の精鋭部隊が担う役割であり、戦果の陰で犠牲となった警察官の数も非常に多く、全滅した部隊も少なくなかった。
旧会津藩の隊員が戊辰戦争での雪辱を果たすために多く志願したとされる(実際に当時は田村五郎と名乗っていた元会津藩士の丹羽五郎が隊長の一人に名を連ねる)が、実際は薩摩出身者が大多数を占めていた。
これは同じ薩摩士族が反逆を起こした、いわば身内から反逆者が出たという事で、忠誠心を示す必要性を薩摩出身の警官達が感じていたであろうことは想像に難くない。
また、旧会津藩士の隊員が「戊辰の復讐」と叫びながら西郷軍を13人立て続けに斬り伏せたという記録があるが、これは当時新聞記者であった犬養毅が書いた記事が基であり、犬養本人も実際に戦場で聞いたわけではないので信憑性が低い。
この抜刀隊の活躍を機に剣術が見直され、維新以降流浪していた剣客の拠点となって、やがて警視流剣術が誕生した。現在でも警察剣道は剣道界最大勢力として強い影響を持っている。
後に行進曲「抜刀隊」が作られ、警察の式典で現在まで広く演奏されている。
我は官軍 我敵は
天地容れざる 朝敵ぞ
敵の大將 たる者は
古今無雙の 英雄で
之に從ふ 兵は
共に慓悍 決死の士
鬼神に恥ぬ 勇あるも
天の許さぬ 叛逆を
起しゝ者は 昔より
榮えし例 あらざるぞ
敵の滅ぶる 其迄は
進めや進め 諸共に
玉散る剣 抜き連れて
死ぬる覚悟で 進むべし