概要
1941年に東宝の演劇部へ入社。後に撮影所の脚本部に転属となり、特撮や人形劇の脚本を手がけたのがきっかけで、東宝退社後、本格的に脚本家の道を歩み始める。その中でも1958年に制作された月光仮面は大ヒットし、日本の特撮ヒーローの先駆け的存在となった。
作詞家としても「伊勢佐木町ブルース」「おふくろさん」など、多数のヒット曲を生み出した。
1984年に発生したグリコ・森永事件では、青酸カリ入りの菓子をばら撒くなどして世間を震撼させた犯人「かい人21面相」に憤慨し、「私財で1億2000万円を提供するから犯行をやめよ」と週刊誌上から犯人に呼び掛け、大きな話題を呼んだ。
『まんが日本昔ばなし』では監修を務めていた事もある。また、同番組のプロデューサーである川内彩友美は先妻の娘(継子)である。
2008年4月6日、慢性気管支肺炎のため88歳で死去。生前から戒名は望んでいなかったとされるが、遺族からは彼の生涯をたとえた「生涯助ッ人」が贈られている。
人物
筋は必ず通し、納得行かぬ事には絶対に妥協しない「喧嘩康範」の異名を取るほどの硬派・正義漢として知られる。その一方、生家が日蓮宗の寺という事もあって、仏教思想に基づいた反戦・非暴力主義者でもあり、その思想は作品にも色濃く反映されている。
耳毛が長い事でも有名。「長寿の印である達磨大師にあやかって伸ばしていた」と語っている。
代表作
特撮
楽曲
その他
『おふくろさん』騒動
2007年2月、川内が作詞した森進一の曲『おふくろさん』の歌い出しに勝手に歌詞が付け加えられていたとして激怒。森の対応がまずかったため※に完全に態度を硬化させ、「森には今後、俺の作品は一切歌わせない」と自身作詞の楽曲を全て封印し、絶縁を宣言した。その後、両者の対話は一切果たされること無く、川内は2008年に88歳で他界。和解は永遠に叶わぬものとなった。
本件における川内のあまりの激昂ぶりを批判的に見る向きもあったが、そもそもの話、第三者が勝手に著作物に手を加える行為自体が著作権法に抵触する。加えて自らの思想や思いを込めていた歌詞を勝手に改変されたのだから、激怒するのは当然と言える。
詳細と顛末についてはWikipediaの「おふくろさん騒動」を参照されたし。
なお、川内本人は自身の著作物のパロディや二次創作等についてはきちんと許可を取りに来れば基本的に認める方針だったようで、『月光仮面』の大ファンでもある漫画家の永井豪が『けっこう仮面』執筆の許可を得るため川内の元を訪れたところ、あの内容にもかかわらず大笑いして快諾してもらえたという。
さらにはモップスの「月光仮面」やSPEEDWAY(TM NETWORKの前身にあたるバンド)の『Rockin' on the 月光仮面』(武田食品「プラッシー」CMソング)、嘉門達夫の『替え唄メドレー』で『にっぽん昔ばなし』をネタとして使用することにも許可を出している。
これらのパロディは「筋を通した」がために許され、森は「筋を違えた」事で、川内の怒りを買ってしまったのであった。
※ 騒動勃発直後にも「僕のおふくろさん」と発言するなど、制作者が主張できる著作者人格権及び同一性保持権を完全に理解していなかった様子が窺える。