概要
本名:森内一寛
1947年11月18日、山梨県に生まれる。
1965年に視聴者参加型歌番組で優勝したのを機に音楽プロデューサーのチャーリー石黒にスカウトされ、彼と同じ渡辺プロダクションに所属となり、事務所の先輩であるハナ肇から森進一の芸名をもらう。
当初はポップス歌手として売り出すはずだったが、チャーリーから個性を強くするように演歌に転向させられ、声もかすれ声に変えさせられた。こうして1966年に「女のためいき」でデビュー。当時は気味悪がられたが、徐々に受け入れられるようになった。
1972年に女性ファンから婚約不履行で訴えられるが、後にこの女性の狂言であることが発覚する。この騒動をショックに森の母親は自殺。落ち込む森に似たような経験を持つ吉田拓郎が「襟裳岬」という曲を提供し、これが大ヒットする。
ただ、この「襟裳岬」の発売当時、北海道のえりも町では町民たちが「襟裳の春は何もないだと? ふざけるな!」と怒り狂い、渡辺プロダクションや作詞者・岡本おさみ宅への抗議の電話が相次いだという。
1980年に同じ渡辺プロダクション所属だった(森は前年に独立)大原麗子と結婚するが、1984年に離婚。その後ボランティア団体「じゃがいもの会」を黒柳徹子や小林幸子らと設立、同会に参加していた森昌子と1986年に再婚。のちにNEWSやoneokrockで活躍する森内貴寛ら3人の息子をもうけるが、2005年に離婚。
前述の「襟裳岬」や松本隆作詞・大瀧詠一作曲という元はっぴいえんどコンビによる「冬のリヴィエラ」など、フォークソング・ニューミュージック系の作詞家や作曲家に曲を依頼することが多いなど、彼自身は演歌というジャンルにとらわれたくなく、流行歌歌手であると主張する。