現在、「演歌」と言う時は、昭和期に西洋音楽が通俗化・日本化することで発生した歌謡曲ジャンルを指す。しかし、「演歌」という言葉は、もともと、明治時代の自由民権運動の中で宣伝・風刺のために歌われた政治的歌謡のことを指していた。
音楽的特徴
通常は「ヨナ抜き音階(4つ目と7つ目=ファとシを用いない)」といわれる日本古来の民謡に似た音階を用い、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法とビブラートが多用されるのが特徴。
日本的なイメージから日本固有の音楽と誤解されていることが多いが、演歌は日本の伝統音楽(雅楽・民謡・浄瑠璃など)ではなく西洋音楽の系譜を引くものであり、演歌の日本的イメージはレコード会社の販売戦略のために作られたものである。
歌詞の傾向には著しく偏りがあり、海や港町、夫婦愛や家族愛、冬の風物、北国(特に北海道)などのモチーフが特に好まれる。
特に男女の恋物語は好んで取り入れられ、失恋の哀愁や未練をテーマにしたものが多くを占める。
なお演歌歌手の歌唱力の高さは世界的に評価されている。
変遷
黎明期
先述通り政治活動において演説の代わりに、政治的なメッセージを乗せて歌われた。海外で言うところのレゲエやラップに近い歴史的側面を持つ。
演歌という名称も、一説には「演説歌」が語源とされる。
「オッペケペー節」などがその代表と言われる。
政治運動にのせて全国に広がるなかで、徐々にメッセージ性よりも心情に重点に置いた演歌が登場し始め、そうした演歌を歌う専門家を「演歌師」と呼んだ。
またこれを真似た流行歌も登場していく。
成長期
昭和に入り、ラジオやレコードが西洋から持ち込まれ、それらにのせて「流行歌」が世に伝播し始める。これにより演歌は表舞台から一旦姿を消してしまう。
しかしその一方で、「小節」をはじめ演歌の歌唱法の基盤となる多くの要素がこの時代に培われ、のちの演歌に大きな影響を与えている。
発展期
戦中になると流行歌は愛国歌謡に変貌させられ、失われた15年となる。戦後復興の中で流行歌の第一人者の引退していったこともあり、流行歌は徐々に勢力を落としていく。
それに代わって徐々に演歌が復旧し始め、その曲調も現在のものに近いかたちへと発達していった。
三波春夫、石原裕次郎、島倉千代子など、昭和の大御所がこの頃に登場し、戦後復興の日本とともに発展していった。なおこの時期(昭和30年頃)までは、演歌と他の流行歌の区別はまだ明確ではない。
興隆期
高度経済成長期とともに、アメリカからフォークソングが入ってきたことで、演歌の演説としての要素(メッセージ性)はフォークソングが担うようになった。歌詞の内容もより抒情的で、愛や人情に傾倒するようになり、いわゆる演歌らしい演歌「ど演歌」と言われるような世界観が確立したのがこの時期である。同時に演歌も「歌謡曲」というジャンルに括られる傾向も見せていく。ジャンルとしては大きな発達を見せ、現在では大御所と呼ばれる数多くの演歌歌手が登場し、数々のヒット曲を飛ばしていった。
後退期
1970年代、フォークソングの流行、ロックンロールやブルースの登場、さらにそれを土台に発展したニューミュージックの登場により、若者と中高年で音楽の志向が完全に二分されていく。
カラオケが発明され、世に“カラオケブーム”が到来すると、演歌は中高年を中心にカラオケで愛されるようになった一方、音楽業界全体は“カラオケでの唄いやすさ”に着目するようにもなり、独特の歌唱法を要する演歌は不向きと看做された。演歌の愛好者は高齢化する一方となり、次第にその市場規模を狭めていった。
J-POPが最盛期を迎えた1990年代には演歌はマンネリの代名詞となり、衰退が顕著となったが、大御所の活躍、若い世代で演歌に目覚める歌手の登場もあって、完全に消沈することなく、細々と生きながらえていく。