概要
安田講堂事件とは、昭和30年代後半から40年代前半(1960年代)にかけて巻き起こった学生運動の一種である東大紛争の終焉となった事件である。
全共闘や、中核派などの極左暴力集団(いわゆる新左翼過激派)が東大医学部におけるインターン制度是正に端を発する東大紛争の一環として、昭和43年7月より翌年(昭44年・1969年)にかけて安田講堂にバリケードを構築し、ストライキを行なった。
この一連の東大紛争や、日本大学で勃発した日大紛争などが遠因となり、全国各地の大学へと学生運動が飛び火することにもなった。
また、機動隊員に死者が出たことで、警察が学生運動の取り締まりを本格化する契機となった。
インターン闘争と日大紛争
インターン闘争
東大紛争について記事を作成する以上、その経緯として、医学部のインターン制度是正に端を発すインターン闘争についてここで取り上げる。
かつて、全国の大学の医学部や医科大学、医学専門学校にはインターン制度と呼ばれるものがあった。この制度を噛み砕いて言うと、医師国家試験受験の要件として、「医学部・医科大学・医学専門学校卒業者は、卒業後1年間、実地修練として実際の医療現場において医療に従事する」というものである。
だが、責任の所在が曖昧であったことや(先述のとおり、医師免許取得のための過程であるならば、当然、免許取得前。つまり無免許といって差し支えなかった。万が一、医療過誤が発生した際には無資格者による治療として問題となる)、医学部を卒業したにもかかわらず、インターン期間中は無給であったり、常識外の薄給であったりと、非難の声が高まった。
非難の声が高まる中、安田講堂事件の2年前の昭和42年(1967年)、東大医学部生らを中心とする医師国家試験ボイコット運動が勃発、これがインターン闘争へと繋がることになった。
なお、非難の声の高まりを受け、インターン制度そのものは昭和43年(1968年)に医師法が改正されて廃止された。代わりとして、医師国家試験の合格者は合格後2年以上大学病院等で臨床研修するよう努める規定が盛り込まれ、現在の臨床医制度が発足することとなる。
日大紛争
また、やや本記事の本旨からは逸れるものの、東大紛争(特に安田講堂事件)に関連しているため、日大紛争についてもこの項目に記載する。
日大紛争は読んで字の如し、日本大学において巻き起こった学生運動である。
当時、日本大学においては裏口入学や、極端な営利主義教育が目立ち数々の金権政治・汚職の舞台となっていた。会頭であった故・古田重二良氏を筆頭に、数々の幹部陣や教授らが取調べや逮捕を受け、次々と不正の数々が暴かれていった。
そのような中、学生の怒りが爆発し、日大の改革を求めようとする日大紛争が勃発したのだった。
そして、この日大紛争の中、悲劇が起こったのである。
西条警部の死
当時の警察の姿勢
意外に思われるやもしれないが、実はこの頃、警察側は学生運動の取締にはあまり本腰を入れていなかった。
例えば、過激なデモ行進を規制するとしても、隊列からひとりずつ引き離すだけでお咎めなし。その場で釈放したこともあるほどだった。
まだ、大学進学率が低かった時代である。
機動隊の隊員諸氏にしろ、幹部諸氏にしろ、運動に参加する学生たちを学生さんと呼び、手荒な真似は行なっていなかった。
また、警察内でも「日大当局の象牙の塔的な体質に問題がある。学生たちの未来を考え、手荒な真似、特に逮捕や怪我などはさせないように最大限配慮すべき」との声もあった。
だが、そんな警察の姿勢を一変させる事件が発生した───。
日大本館封鎖解除警備(日大本館攻め)
昭和43年(1968年)9月4日、日大当局からの要請により、警視庁第5機動隊による封鎖解除警備が実施されていた。
この1週間ほど前、大学当局は東京地裁に対し、学生による不法占拠の排除を申請。東京地裁から許可がなされ仮執行処分が実施されることとなった。
その最中、学生が校舎4階からコンクリートブロック片を機動隊員めがけて投擲。それが部下を庇おうと飛び出した第5機動隊・西条秀雄巡査部長に命中し、西条巡査部長は重傷を負って29日に死亡することとなった(死後、西城巡査部長は警部へ2階級特進)。
先鋭化する学生運動と世間の反応
機動隊員に死者が出たことは、警察と世間の両方を揺るがせた。
更に捜査の過程にて、学生(日大全共闘)が組織的に機動隊員の殲滅を企てていたことが発覚した。
この事件を受け、警視庁公安部公安総務課長であった故・村上健警視正は「警察はこれまで学生側にも言い分があるとしてきたが、今後は手加減をしない」との談話を発表。
学生運動に対し宥和的な姿勢をとり続けた警察も、傍若無人な学生の所業に耐えかね、堪忍袋の緒が切れたのである。
また、先鋭化する学生運動に対し、世相の視線も厳しくなっていった。
故・石原慎太郎参院議員が西城巡査部長弔問のため、5機隊舎を訪れた際「こんなの(人頭大ほどあるコンクリ片)を投げたら、隊員は死ぬに決まってるじゃないですか…。何を考えとるんだ…」と涙したほか、それまで学生運動に肯定的であった世間の支持も一気に失われていった。
封鎖解除警備
安田講堂へ結集
先鋭化し、自らの所業がもとで大衆からの支持を失うことにもなった学生運動。
各地の大学でも機動隊の投入や、大学当局による運動家らへの懐柔。また、大学正常化(授業再開やバリケードの撤去)を求めるノンポリ学生や、民青(日本民主青年同盟。日本共産党系の組織で、当時学生運動の中心的組織だった全共闘とは対立関係にあった)によって、続々とバリケード解除が進んでいった。
こうした流れの中で、巻き返しを図るべく、残存勢力が結集したのが安田講堂だった。
昭和43年(1968年)11月には、大学への機動隊投入の責任を取る形で、大河内一男総長以下東大学部長全員が辞任。新たに加藤一郎が総長代行が就任して新たな東大執行部が作られ、安田講堂封鎖解除に向けての方策がとられることとなった。
翌・昭和44年(1969年)1月10日、秩父宮ラグビー場において、7学部合同の学生集会が開かれ、大学正常化を求めるノンポリ学生や民青系学生らとの間でスト解除に向けての合意がなされた。
だが、依然として、全共闘などの学生らとの意思疎通は困難であり、最終手段として、警察による封鎖解除をとることとなった。
真冬の出動
時に昭和44年1月18日。ついに警視庁機動隊による東大安田講堂封鎖解除警備が実施された。
警視庁本部に設置された最高警備本部の本部長は第67代警視総監・秦野章氏が務め、総合警備本部長は警備部長・下稲葉耕吉 警視長が、総合警備本部の幕僚長として、現場の統括は警備第一課長・佐々淳行 警視正が執った。
8個機動隊を総動員したが、日大工兵隊によって構築された堅牢なバリケードや、学生による火炎瓶や硫酸などの劇薬類の投擲などにより、封鎖解除は熾烈を極めた。
結局、夜間帯の危険性に鑑み、18日の封鎖解除は一時中断し、翌19日に完遂したのである。
このほか、安田講堂奪還を標榜する学生らによって、神田カルチェラタン(解放区)闘争が勃発するも、警視庁機動隊によって即座に鎮圧されている。
逮捕者は633名(うち、東大生38名)。
負傷者は警察官側710名、学生側47名を数えた。
その他
学生にまつわるあれこれ
この年の入試
事件の影響から、昭和44年の東大入試は中止となり、昭和44年度の入学者は0人となっている。
当時、高校3年生であったジャーナリストの池上彰氏も東大入試が中止となったため、慶應義塾大学に入学したとのこと(TV番組での発言より)。
逮捕された東大生は……?
東大で起こった事件であるが、上記に記した通り逮捕された東大生は逮捕者の6%足らずとごく僅かである。というのも、封鎖解除直前、東大全共闘の一部と革マル派系は「今後の闘争継続のため」として、安田講堂から脱出していたためだった。もっとも、両者ともこの行動が元で後に「日和った」として批判を受けることにもなった。
また、日和った東大生の中には、何食わぬ顔をして就職活動に勤しみ、企業戦士として資本主義の一翼を担った方や、公務員や官僚として日本国の発展に寄与した方も多い。
彼らが主義主張を捨てて世間に迎合したことは、後の世代から学生運動が軽蔑される理由となっている。
安田講堂に関わっていた国会議員の先生方
東大で起こった事件ゆえ、数多くの国会議員の方々が逮捕歴の有無や思想に関係なく参加していた。
例記すると───
故・仙石由人氏(民主党。菅直人内閣内閣官房長官や、鳩山由紀夫内閣の内閣府特命担当大臣など)
当時はフロント(社会主義同盟)学生として、逮捕歴こそなかれ、弁当運びに参加していたとのこと。
故・町村信孝氏(自民党。福田康夫内閣内閣官房長官や、安倍晋三(第一次改造)内閣外務大臣など)
当時はノンポリ学生として、大学正常化(つまりバリケード排除)に動いていた。
仙石氏と同様、フロントに参加。お兄上は学生運動にのめり込む阿部氏を心配していたそうだ。なお、封鎖解除警備直前にバリケードの外へと出ており、その後は小児科医として活躍し、議員に。
機動隊員の悲哀
何を好んで誹りを受ける
当時、機動隊員らは「権力の手先」だの「国家の犬」だのなんだのと謂れなき批判を浴びていた。街を歩けば後ろ指を指される状況である。
そんな彼らもほとんどが学生と同じ20代。だが、彼らの場合様々な理由から大学に行けずに治安維持の一翼を担った方がほとんどだった。
死に目にも会えない苛烈な勤務
機動隊員の中には、安田講堂警備の直前"チチキトク"(父危篤)の電報が入ったが、警備に出動せざるを得なかった隊員もいた。そして警備終了後、寮に帰ると"チチシス"(父死す)の電報が……。電報の紙切れたった1枚で親の死を知った隊員もいたのである。
またある隊員は、寮にて唯一の家族である文鳥を飼っていた。だが安田警備を終えヘトヘトになって帰宅した際、エサも水も満足にあげられなかったせいか文鳥は既に息を引き取っていた。すまなかった、すまなかったと、件の隊員は咽び泣いたという……。
街の方々の反応は
先述したように学生らからは権力の手先と後ろ指を指されることがほとんどだった。しかし一方で過酷な任務に挑む機動隊に対し温かい声を掛ける市民も数多かった。
冬の寒空、放水を浴びてビショビショになりながらも任務を遂行する隊員に熱い湯茶の接待をした母娘。
若い警察官がリンチを受け、命からがら八百屋に駆け込んだ後。追い縋る学生から「今ココにオマワリが逃げ込んだろ、出せ!」と言われても「逃げ込んでなどおらん。疑うならオレが相手だッ!」と、大根片手に凄んだ八百屋の主人。
このほかにも、数多くの激励の手紙や電話、陣中見舞いの品々なども寄せられたという。
機動隊員の愛唱歌
そんな中、機動隊員を讃えるべく川内康範 作詞、猪俣公章 作曲で作られたのがこの世を花にするためにとこの道の2曲。
現在でもこの2曲は警察学校等々で愛唱されているほか、機動隊観閲式(令和2年)でも演奏されたことがある。
なお、歌唱はあの演歌御三家のひとり、橋幸夫氏である。
また、橋幸夫氏は執筆時点(令和4年・2022年)において、歌手生活引退を明らかにしているが、歌手としてのラスト・ソングは『この道を真っすぐに』。
自ら作曲した、警察官へのエールを込めた唄だそうである(なお、作詞はお子さんが警察官という希雄由氏)。
参考文献
佐々淳行著『東大落城』
Wikipedia『東大安田講堂事件』
関連タグ
東峰十字路事件・あさま山荘事件・山岳ベース事件:学生運動の延長で新左翼が起こした暴力事件。いずれも死者が出ており、世間の新左翼に対する評価を失墜させた。
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