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概要

極左暴力集団と呼ばれる日本の過激な左翼団体の一つであり、前身だった日本トロッキスト聯盟から分裂した中で、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)に次いで有名である。

早稲田大学を拠点とし、同校に長く影響力を保った。


日本で共産革命を起こし、日本を共産主義国家とすることを目的としており、『反帝国主義』『反スターリン主義』を掲げている。

学生組織は『マル学同革マル派』。


中核派との壮絶な内ゲバの末・・・

1970年代には、革マル派は中核派との壮絶な内ゲバに明け暮れていたが、これがもとで学生からの学生運動に対する支持を失う結果をもたらした。


その内ゲバの起源は、1970年8月3日に発生した「東京教育大学生リンチ致死事件」にある。

事件は、池袋駅前で街宣活動を行っていた中核派活動家により、たまたま通りかかった、革マル派活動家でもある東京教育大学の男子学生が、当時中核派の拠点校でもあった法政大学に拉致され、リンチを受け絶命、その死体が東京厚生年金病院の玄関前に放棄されているのを翌朝発見された・・・というものであるが、この事件を受けて革マル派は報復を宣言。以後、それまでは小競合い程度にとどまっていた両派は凄惨な内ゲバを展開していき、これにより多くの人命が失われ、また検挙者も多数出た。

ちなみに絶命した男子学生は、活動家とは言っても、特に目立った活動はしていなかったことが判明している。


1972年11月9日には、一般学生の川口大二郎をリンチ殺人する「川口事件」を起こす。川口は元革マル派の同胞だったが、やがてその実態に失望し中核派に近づく。しかしシンパとなることは無、いわゆるノンポリに留まった。だが、革マル派は彼が中核派に寝返ったと誤解して拉致し、全身を激しく殴打してショック死させ、遺体を東京大学附属病院の前に遺棄した。

この事件がきっかけで、拠点である早稲田大学でも怒りの声が続出。当時の早稲田大学は、政治的事情から革マル派と癒着しており、事件後も長らくその関係を維持し続けたが、1997年に革マル派が教授の自宅に盗聴器を仕掛けた事件を機に決別。大学側は革マル派の追放に乗り出した。

こうして革マル派は大学での活動拠点を失い、表舞台からも消えていった。


現在

世論の支持が得られなくなった今日では、中核派と同じく、構成員からして減少している上、構成員の高齢化も進む。その証拠に、一部で「反原発運動や反米軍基地運動の後ろ盾となっている」などと囁かれてはいるが、これら市民運動に構成員が紛れ込む事はあっても、後ろ盾になるような力は事実上失われており、これらはかつて社会党に仕掛けた加盟戦術と同様に解するべきである。

かつては国鉄動力車労働組合(≠動労千葉)に多くの関係者が浸透し、動労本部出身の議員も所在していたものの、1986年に公式に絶縁と民営化賛成を宣言した。


現在でも中核派と共に、学生運動を振り返る番組や書籍で頻繁に取り上げられるが、ほとんど懐古としての意味合いであり、現在でも活動していることはあまり知られていない。

中核派と同じく、未だに公安にマークされている。


関連項目

wikipediaの記事


筑波大学:前述の東京教育大学の後身。東教大時代は文京区にキャンパスがあった。

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極左暴力集団 きょくさぼうりょくしゅうだん

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