概要
昭和21(1946)年から平成12(2002)年までの、女性警察官の正式名称。
警視庁が第1期生を警察練習所(現在の警察学校)に入所させた3月11日と、卒業し勤務に送り出した4月27日を記念日事典などでは「記念日」とするが、第1期生は警察官という名前で制服を着用していたものの、事務職員だった。
「警察民主化の象徴」
各都道府県警が編纂した「警察史」には、このような地元紙の見出しを引用しているが、募集時点から巡査としたのは兵庫県だけで、警視庁も当初は事務職員だった。しかし交通取締、当時たむろしていた街娼の取締、闇市などの経済事案の取締などの警察活動に出すと、不都合が発生したため、1か月程度の追加教育を行い、巡査にしている。
・逆風の時代~昭和20年代~
昭和23(1948)年の「警察法」では、市と人口など一定の要素を満たした町村は自前で警察を運営しなければならず、それまで駐在巡査一人で済んだ町村でさえ、警察長以下の警察吏員を置かなければならなくなった。しかも同年公布の「労働基準法」では原則女性の深夜労働は禁止。しかし当時の警察は警視庁を除くと24時間勤務の当番と明けで休日の非番をくり返す2部制で、婦人警察官を採用すると日勤だけしかできず、少ない定員の自治体警察では男性の負担が増すことになり、警察当局も婦人警察官の運用方法がわからず、交番勤務などの男性と同じ勤務につけてしまった。外国からの女性の要人も来るので女性は必要なはずの皇宮警察も、男性と同じ立番などをさせている。そこへきて「警察官に向いた失業者がいるのに婦人警察官を採用するのは笑止千万」(群馬県警への投書)などと世論も否定的になるなど逆風が吹き、「警察民主化の象徴」とされた婦人警察官は、事務職員への転出、寿退職などで、警視庁を除くと、現行制度になる昭和29(1954)年にはほとんどいなくなっていた。
警視庁に限っていうと、苦しい定員の中でも女性ではないと対応できない街娼の取締、女性が被疑者の事案などの捜査、女性被疑者の留置場看守のため、採用を続けてはいた。第7期生、第8期生は、警察事務職員の留置場看守として採用した者から、警察官に配置転換している。中には、B・C級戦犯の法廷警備に出動し、戦犯とされた肉親の裁判を傍聴しに来た人の子供を預かった、という話しすらある。
また、盛り場の上野、銀座などでは男女ペアを組んでの徒歩警らが行われて、「アベック・パトロール」と呼ばれている。交通機動隊でもサイドカー(旧軍払い下げの陸王が多かった)の側車に婦人警察官が乗務する警らが行われている。
・停滞時代~昭和30年代~
昭和30年代には、少年補導、女性でないと対応できない事案に対処するため採用を再開する道府県も出たが、隔年に1人か2人、寿退職などの欠員補充程度で、むしろ防犯課所属の事務職員、婦人補導員の採用が行われている。
・「街のさわやかさん」~昭和40年代、50年代~
昭和40年代は、極左暴力集団としかいえない組織に扇動されて、学生運動、労働運動がおかしな路線をとった時期である。無論、巡査としての採用は、男性として、それも機動隊員に回したい当局としては控えたかった。しかし、交通事故が多発、違法駐車など運転者のモラルも問われる違反が相次いだ時代でもある。よって昭和45(1970)年、交通に関しては警察官と同等の職務を有する警察官類似の制服を着た事務職員、交通巡視員として多数採用されたので、「婦警さん=交通課」の図式ができた時期でもある。この時期の警察を舞台としたテレビドラマ、漫画などでも、婦人警察官は制服姿の内勤事務か、交通課所属である。
・男性と同じ職務、現場へ ~昭和から平成へ~
昭和61(1986)年の雇用機会均等法で、男性が主体だった部署へも婦人警察官を配属できるようになると、捜査、鑑識、警備といった部門にも婦人警察官が配置される。従来から配属されていた警ら課、交通課、防犯課でも、24時間勤務の当番勤務で、白バイ隊や自動車警ら隊、派出所で勤務する者も出るようになった。翌62(87)年の国鉄分割民営化で、日本国有鉄道鉄道公安局(具体的には沿線の鉄道管理部の鉄道公安局)から業務を引き継いだ鉄道警察隊にも婦人警察官は配属されている。定員増にあわせて、交通巡視員、補導員から警察官になった人も多数いる。
平成に入ってからの概略は、「女性警察官」の項目を参照されたい。