マット・マートン
まっとまーとん
メジャー時代
2003年のドラフト1巡目でジョージア工科大学からボストン・レッドソックスに入団。
その後は、2004年に4チームが絡むトレードにより、シカゴ・カブスへ移籍し、2005年7月8日の対フロリダ・マーリンズ戦でメジャーリーグデビューした。このデビュー戦では、のちに阪神でチームメイトとなるランディ・メッセンジャーがマーリンズの2番手投手として登板し、2打席対戦して右犠飛と右二塁打を放っている。その後はオークランド・アスレチックス、コロラド・ロッキーズでプレーしていた。
阪神時代
2009年、外野手の強化を求めていた阪神タイガースが、獲得した。契約金5,000万円・年俸1億円の2年契約。背番号は9に決まった。マートンの入団と相前後して、チームのレギュラー中堅手で1番打者だった赤星憲広が怪我で電撃的に引退したため、マートンは代わりの「1番・中堅」として期待をかけられた。
2010年の春季キャンプでは評価は低く、野球評論家からは酷評を受けた。だが、オープン戦では好調を維持し、最終的にはシーズン200本安打を記録。イチローの持つ210安打の日本記録を更新し、214安打とし、最多安打を獲得した。
2011年は、開幕戦で先頭打者ホームランを記録するも、春先は打率1割台と不振にあえいだ。また、5月26日の対千葉ロッテマリーンズ戦では、3-1でロッテがリードの8回表、1死走者二塁の場面で、打者の清田育宏が打ち上げたライトフライを捕球した際に3アウトチェンジだと勘違いし、ボールをスタンドに投げ入れてしまうという大失態も演じた。そのため2塁ランナーの今江敏晃が規定によって2つ進塁してホームインし、いらない失点を献上してしまうという珍プレーをしてしまう。奇しくもこの日は、8年前に同じ事をやらかしてしまった元巨人のクリス・レイサムの誕生日であった。 だがその後は打撃フォームが安定し、180本安打を記録。前年と同様、最多安打を獲得した。
同年シーズン後に2年契約が満了し、メジャーリーグに復帰する可能性も取りざたされたが、再び2年契約を結んで阪神に残留した。
2012年はシーズンを通じて攻守に精彩を欠いた。
2013年は一時4番打者として起用された。来日後最多となる19本塁打と、178安打・37二塁打を記録し、来日後3度目のリーグ最多安打に加えて、リーグ最多二塁打も達成した。シーズン終了の直後にはメジャーリーグへの復帰を示唆したこともあったが、1年契約で阪神への残留を決めた。
2014年は4月5日の対広島東洋カープ戦で自己最多となる1試合7打点を記録。4月30日の同じく対広島戦で日米通算1000安打に到達。シーズンの最終打率は.338で、来日後初めて首位打者のタイトルを獲得。
2015年も阪神に残留し、阪神の外国人選手では初めてとなるNPB公式戦通算1000本安打を達成(9月3日、広島戦)。ただし、レギュラーシーズン通算では、打率.276、9本塁打という成績にとどまった。2015年のシーズン限りで阪神タイガースを退団。
阪神退団後
2016年のシーズン開幕前に古巣であるシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。打率.314、37打点、2本塁打を記録したが、メジャー契約への再締結には至らずFAとなった。2017年シーズンはデトロイト・タイガースとマイナー契約を締結したが、4月中に契約を解除。シーズン終了後に現役引退を発表した。
2018年から古巣のシカゴ・カブスで編成部門補佐を担当。
エピソード
「アイドントライクノウミサン」。2012年6月9日のオリックス・バファローズ戦にて2塁ランナーの生還を許してしまった件について報道陣に尋ねられた際に彼が言ったセリフであり、チーム内の確執・個人的感情によって敗退行為が行われたとも受け止められかねない騒動へ発展。「俺は能見さん(能見篤史)が嫌いだから、オリックスに点をあげたんだ」という趣旨の発言で、もちろん本心ではなく、打撃不振などが原因の焦燥を抑制できなかったことなのだろう。
その後2013年4月9日の読売ジャイアンツ戦で、勝利の立役者として能見とマートンの2人がお立ち台に上がることになり、「チョットマッテ、チョットマッテ」と断りをおいたマートンは、「ノウミサン アイシテル!」と宣言。能見とマートンがその場で熱い抱擁を交わしたことで、この騒動はひとまず収束を迎えることとなった。