やなせたかし
やなせたかし
人物
1919年2月6日~2013年10月13日。高知県出身(出生は東京)の漫画家、絵本作家、イラストレーター、詩人、歌手。
日本漫画家協会理事長、有限会社やなせスタジオ社長。季刊雑誌『詩とファンタジー』責任編集。
ミシェル・カマという筆名で作曲活動も行った。
代表的な作品としては『アンパンマン』シリーズ、『チリンの鈴』『やさしいライオン』など。また、有名な童謡『手のひらを太陽に』を作詞したのは彼である。
遅咲き漫画家
幼少期に父が亡くなり、縁故を頼り高知県に移る。母が再婚したため、先に引き取られていた弟(太平洋戦争で戦死)と共に伯父の家で養子として育てられた。
中学の頃に絵に関心を持って大学は美術科に行き、卒業後は製薬会社の宣伝部に就職。
戦時中は中国戦線に出征。現地民向け啓蒙用のビラや紙芝居を作って各地を従軍。補給部隊のため直接戦闘にかかわらず終戦を迎えたが、厳しい飢餓に苦しみ、その後の自身の反戦感情や正義の意味に影響した。
新聞記者、三越のデザイナーなど様々な職業を経て30代半ばで専業漫画家として独立したが、長らく鳴かず飛ばずの時期が続き、デビュー後しばらくは舞台美術家や作詞者、テレビ司会者、放送作家としての仕事が多かった。この頃は絵は誰も知らないのに顔は誰でも知っている(テレビ出演しているから)という漫画家としては笑えない事態になっていたという。47歳の時サンリオから本を出したことがきっかけで詩人・絵本作家として徐々に売れるようになった。最大のヒット作『アンパンマン』を生み出したのは50歳を過ぎた時。雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ編集長を務める一方で、「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。アンパンマンが人気作品となった時には既に60歳を過ぎていた。
晩年
奇人変人も多い漫画界にあって、人柄の良さ、人望の篤さで知られ、日本漫画家協会の理事長を長く務め、戦後日本漫画の主流となったストーリー漫画と並んでカートゥーンの復権に尽力した。
もともと体はさほど丈夫ではなく、初老の頃からしばしば入院していた。しかしそれだけに体調管理には気を配っており、不規則な生活がたたって早世する者も少なくない漫画業界にあって、晩年まで現役であり続ける体力を維持した。睡眠時間を大切にしており、昼食の後は昼寝が日課だった。本人は「俺や水木しげるはよく寝るから長生きしているけど、手塚治虫と石ノ森章太郎は寝ないで仕事したから早死にした」と語っている。
高齢に加え病気を繰り返したため、体力の衰えから一時は活動引退も考えたが、2011年に東北地方太平洋沖地震により発生した東日本大震災で、被災者たちがアンパンマンの歌を歌って励まし合い勇気付けられたことや、「奇跡の一本松」の存在に接し、死ぬまで現役を貫くことを決心したという。
訃報
2013年に入る頃には死期を悟り、「俺はもうすぐ死ぬんだ」と冗談めかして公言していた。生前から「清浄院殿画誉道嵩大居士」なる戒名を自分でつけ、仏壇に飾っていたという。
夏に体調を崩し肝臓がんと診断されて入院していたが、同年10月13日午前3時8分、心不全のため都内の病院で死去。享年94。生家の跡地に作られた小公園に妻の暢婦人と一緒に葬られた。
なお、メディアなどではクリスチャンであると紹介されることがあったが、少なくとも晩年はキリスト教の信仰は持っておらず、実際には仏教徒であったようである。
又、高知新聞に月2回のペースで連載されていた自身のエッセイを収録した『オイドル絵っせい 人生、90歳からおもしろ!』の著書の「アイマイ」で「日本人の多くはぼくをふくめて無宗教に近い。」とコメントしている。
また亡くなる一年前の劇場版アンパンマンの初日舞台挨拶では「死ぬのは(アニメ版)アンパンマンが25周年を迎えてから」「25周年映画を作って死ねたらもう何も悔いはない」と公言している。実際宣言通り2013年7月6日に「それいけ!アンパンマンとばせ希望のハンカチ」を公開(亡くなる三か月前ながら初日舞台挨拶にも出席している)、10月3日にアニメ放送25周年を迎えてからその10日後に亡くなっている。ただ、本人はあともう二年は生きたかったそうだ。