MiG-3の誕生
MiG-3はミコヤン・グレヴィッチ設計局で開発された戦闘機で、MiG-1の改良型である。
MiG-1はスピードこそ速いものの、操縦し難い、機体強度が不足、火力が弱い、失速しやすい、航続距離が短いなどの欠点を持ち、100機で生産が打ち切られた。
MiG-3ではそれの改善を目的としており、1940年11月20日に制式化され、生産を開始した。
MiG-3の特徴
エンジンは1段2速スーパーチャージャー付きのミクーリンAM-35Aとし、搭載位置を前にずらし縦方向の安定性を高めた。操縦席の後に燃料タンクを増設し、風防を開放型から密閉型に戻した。主翼は外翼の上反角を強めた。
高高度での性能に優れ、試作機は高度7,000mで最高速度655km/hを記録し、就役当時の戦闘機としては最速の部類だった。
反面、低高度では性能が低下し、相変わらず旋回性能や安定性などは劣っていた。武装はMiG-1と同じままで前線では不評だった。
後期生産型では、各部の空力洗練や主翼前縁への隙間翼(自動スラット)の追加を行い、空戦能力の改善を図ったが、根本的解決には至っていない。
性能諸元
全長 | 8.25m |
翼幅 | 10.20m |
空虚重量 | 2,699kg |
エンジン | ミクーリンAM-35A 液冷V型12気筒×1 |
最大出力 | 1,350馬力 |
最高速度 | 640km/h |
航続距離 | 820km |
実用上昇限度 | 12,000m |
上昇率 | 667m/min |
乗員 | 1 |
武装 | UBS 12.7mm機銃×1、ShKAS 7.62mm機銃×2、100kg爆弾×2(RS-82ロケット弾×6) |
実戦参加
東部戦線の航空戦は地上攻撃機の援護に終始し、MiG-3が苦手とする低空域での作戦展開が殆どだった。このため、同時期に就役したYak-1やLaGG-3に主力戦闘機の座を奪われた。
開戦時には先述の2機より多くの機体数が配備されていたが、徐々に置き換えが進み、前線からは姿を消した。
1942年にAM-35エンジンの生産が終了。後継のAM-38は全生産をIl-2用に充てる事となり、機種統合の兼ね合いもあってMiG-3の生産も終了した。3,000機程度の生産に終わっている。
その後
前線から引き揚げられた機体は、その高空性能の高さから、防空軍で高高度迎撃機及び夜間戦闘機として運用されている。
戦闘機としての役目を終えた後も、高高度性能と高速を活かし戦術偵察機として使用された。
「赤色スピットファイア」の憂鬱
ところが、この戦闘機が立派だったのは、性能までであった。
確かに1941年としては破格の620km/hという猛烈な俊足を誇り、「赤色スピットファイア」としてデビューしたMiG-3だが、実戦での評判はすこぶる悪かった。
というのも、この機は俊足を誇るあまりに、ソ連機名物だった防弾をまったく施していなかったのだ。前任は防弾のおかげで、非常にしぶとい機だったのに、である。
おかげでフィンランド側には『どの角度から撃ってもよく燃える墜としやすい相手』と評価され、その上エンジンはただでさえ不調が続発する厄介な一品でもあった(当時の赤軍での一般的な傾向として、説明書も読めない未熟な兵が扱っているのでなお酷い)。
また、たとえ額面どおりの高速を発揮したとしても、高速では操舵が効きにくい欠陥もあり、今度は敵弾を回避することもままならなかった。火力もI-16(タイプ24)が7.62mm機銃ShKASと20mm機銃ShVAKが2挺ずつだったのに対して、MiG-3は2挺の7.62mm機銃ShKASの他には12.7mm機銃UBを備えるだけだったので見劣りがする。
こうして、MiG-3はLa-3、Yak-7などの同時期の新鋭機のなかではダントツのビリっけつという評価に留まり、エンジンや機銃を替えた改良型も登場したが、評価を覆すには至らなかった。
生産数は約3000機だと言われる。
日本ではこれでも四式戦闘機の生産数に近く、紫電改では倍以上にもあたるが、ソビエトはLa-3・Yak-7をそれぞれ6000機以上も作っているため、「比較的少数の生産に終わった」といえるだろう。
スポーツ機・レース機ならもっと別の活躍をしただろうに、全く現場を顧みなかったおかげで的外れの低評価に留まってしまった。しかしミコヤン・グレヴィッチ設計局は、大戦終結後にMiG-15を送り出し、世界的にもその名を知られたメーカーになっていく。
現在では名だたるメーカーではあるが、その初期にはこんなポンコツを作ってしまうこともあったのである。
参考資料:「北欧空戦史 ―なぜフィンランド空軍は大国ソ連空軍に勝てたのか」 (HOBBY JAPAN軍事選書)