来歴
1936年(昭和11年)、5人兄弟の末子として和歌山県に生まれる。のちに大阪府堺市に移り住む。さいとうが小さい時に父親が家を出たため、母親が理髪店を営みながら女手一つで5人を育てた。
新人時代は手塚治虫のようなタッチの絵だったが、日の丸文庫の貸本短編集『影』に執筆していた漫画家たちと交流を深めることにより、リアルな絵柄である劇画へと変更。
1960年にさいとう・プロダクション設立。同年『台風五郎』の大ヒットにより注目される。
そして、1968年に長寿漫画で日本の「劇画」の代名詞であるゴルゴ13を連載開始する。
人物
小さいころから図工と喧嘩が大好きで、本人曰く漫画家になるちょっと前までは喧嘩三昧な生活を送っていた。
ただ、父親は自ら営んでいた理髪店の経営を放り出し、漫画家や写真家などを志して芸術関係に手を出し、その全てに失敗した末に出奔してしまった。
母親はこの経緯から芸術を人一倍嫌悪するようになり、父親が残した絵を何の躊躇も無く無言で竃に投げ捨てて燃やしながら「男が芸術で食べて行けるわけが無い」と吐き捨てた。小学生時代のさいとうが金賞を取った絵も即座に竈に入れられて燃やされたとの事。
漫画家となるために実家の理髪店を辞めた際には大激怒され、以来母親は漫画と漫画家を親の仇の如く憎悪するようになったという。さいとうが漫画家として大成した後も送ったゴルゴ13の単行本を見もせずに即刻焼却し、その挙句、死の床にあっても単行本に指一つ触れようとしないどころか視界から背け、さいとうの事を最期まで認めず、同時に許さなかった。
手塚治虫へ会いに手塚の家へ訪問した際、居留守を使われたことがある。この事がきっかけで「打倒!手塚」を掲げるようになった。その対抗意識は手塚本人のみならず、彼の弟子達にも向けられていたらしく、彼らの住居であったトキワ荘を物陰から睨みつけているさいとうの姿が度々目撃されていた。そして、不審に思ったトキワ荘住人に声をかけられると、「君たちは子供向けの漫画を描いているらしいが、俺は大人のための漫画を描く」と啖呵を切って去って行ったという。
ゴルゴ13が背後に立っている人間をいきなり殴るという習性は、子供の頃に一番上の兄が映画館から出ていきなり後ろの人を殴ったことに由来するとさいとう本人は語っている。
趣味はテレビや映画鑑賞、そこからネタ探しすることもある。若い頃から大相撲ファンでもある。 80年代にはゴルフに熱中しており、山梨の富士野屋別館には石ノ森章太郎・北見けんいち・ちばてつや・つのだじろう・藤子不二雄A・古谷三敏と書いた寄せ書きが額縁入りで飾られている。
⇒井上純一の「中国嫁日記」より。(石和温泉郷新婚旅行事件第12回、第13回)
能見正比古の提唱した血液型性格診断の熱烈な信奉者であり、血液型の著書を複数出している。
作品一覧、および関連イラスト
※pixivで確認できる作品タグのみ記載。