引退試合
いんたいじあい
概要
プロ野球
一口に「引退試合」といっても選手によって大きく異なる。野球選手の場合、投手では一人の選手と相対するケース、野手では一打席のみに出場するケースとスタメンに名を連ねるケースがあり、人それぞれである。
たとえば、そのチームが優勝を争っている場合、いくらチームに貢献した名選手でも「引退試合」が割愛されついに行われなかったり、翌年のオープン戦に先送りされることもある。また、たとえ名選手でも王貞治、張本勲両氏のようにシーズン終了後に引退を表明し、ついに「引退試合」が行われなかったこともある。
最後に出場した試合が引退試合になるわけではなく、引退するけど戦力として必要などのチーム事情でシーズン終了(場合によっては日本シリーズ最終戦)まで出場と言う場合も少なくない。
主な引退試合
- 長嶋茂雄(読売ジャイアンツ) 引退試合では代表的的存在。1974年10月12日の対中日ドラゴンズ戦が引退試合となった。「我が巨人軍は永久に不滅です」で知られる。
- 中畑清(読売ジャイアンツ) 1989年に現役引退。興行としての引退試合は行われなかったが、近鉄バファローズとの日本シリーズ最終戦で現役最後の本塁打を放っており、これの印象が非常に強く「中畑は引退試合の最後の打席で本塁打を放った」・・・と今でも誤解されがちである(実際はこの後もう1打席あり、サードフライだった)。
- 原辰徳(読売ジャイアンツ) 1995年10月8日の対広島東洋カープ戦で引退試合を行い、4番サードで出場、現役最後の本塁打を放った。
- 西本聖(読売ジャイアンツ) 1994年、一度も一軍マウンドを踏むことなく引退。シーズン終了後、巨人の二軍が当時使用していた多摩川グラウンドで記者や友人を集めて「引退試合」を行う。
- 佐々岡真司(広島東洋カープ) 2007年10月6日の対横浜ベイスターズ戦が引退試合となり、9回表二死に登板、村田修一からホームランを打たれており、これが現役最後の登板となる・・・かと思われたが(以下、下記に続く)
- 古田敦也 (東京ヤクルトスワローズ)↑の佐々岡の引退試合の行われた翌日の神宮での対広島戦が引退試合となり、最終打席にはその佐々岡が志願しての登板となった(佐々岡はこれが現役最後の登板)。結果はショートゴロに終わる。なお古田も翌日の対横浜戦に出場、これが最後の試合となり、結果はレフト前ヒットだった。
- 石井琢朗(広島東洋カープ) 2012年に現役引退。引退試合は9月30日の対阪神戦(マツダ)だったが、それ以降も試合に出場。シーズン最終戦は奇しくも横浜での古巣の横浜DeNAベイスターズ戦となり、両チームのファンが石井を応援するの中での最終打席はセンターフライに終わる。石井の引退試合はこちらの方が記憶されてることが多い。
大相撲
基本的に場所の最中、取り組みに勝てなくなり、体力、気力の限界を理由に引退するケースが多い。
引退試合は行われないが、関取になり幕内・十両で実績を残したものには、「引退相撲」を開催することができ、メーンイベントとして土俵上でその力士をひいきにする人々や師匠にあたる親方・仲間の力士らによって「断髪式」がとり行われる。
サッカー
「引退試合」が行わる場合、シーズン最終戦がそれに充てられることが多い。また、スター選手になるとその選手の所属チームと友人にあたるかつてのスター選手たちが集まって「ドリーム・チーム」を作り「ドリーム・マッチ」が行われることがある。(この場合、引退する選手は前半は所属チームに、後半は「ドリーム・チーム」に所属してプレーすることがある)