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醍醐忠敬の編集履歴

2019-09-24 15:32:55 バージョン

醍醐忠敬

だいごただゆき

醍醐忠敬とは江戸時代後期から明治時代の公家。

概要

権大納言侯爵醍醐忠順の次男。官位は従三位、維新後は錦鶏間祗候


プロフィール

出演作品江戸時代後期 - 明治時代
生誕嘉永2年10月4日(1849年11月18日
死没明治32年(1899年)5月23日
官位従三位
主君明治天皇
氏族醍醐家
父母父:醍醐忠順
子女為子、忠重、静子、信子

経歴

戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督として転戦。戦後永世賞典禄六百石を下賜し従三位。維新後は留守権判官、元老院議官、錦鶏間祗候に就任。明治32年(1899年)に甥の醍醐格太郎に射殺された。


殺害事件

家督は兄の忠告が継ぐべきだったが忠告は病弱だったため父忠順は忠敬を後継者としていた。本来は忠順→忠告→格太郎と家督は継がれていくべきだったが格太郎は不満だった。

格太郎は遊び呆けり借金を作る。その後父忠告は病死、明治32年(1899年)3月に格太郎は麹町の醍醐邸を出ていき、乳母の息子の家に厄介になる。この時格太郎の借金は400円に膨れ上がった。忠敬は甥の格太郎に工面することができなかった。同年の5月23日に忠敬は男爵四条隆平と談笑していたところ侵入した格太郎に拳銃で撃たれ、忠敬の娘為子も撃たれた。格太郎は隆平によって取り押さえられ、通報した警察よって逮捕された。忠敬は死亡、為子は重傷を負い、格太郎は無期徒刑(無期懲役)の判決を下された。この事件はスキャンダルとなり、家督は父忠順が再び継いだ。忠敬の長男忠重一条公爵家に引き取られた。


外部リンク

醍醐忠敬 - Wikipedia


関連タグ

公家 醍醐家 明治時代

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