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醍醐忠敬の編集履歴

2021-12-09 01:49:13 バージョン

醍醐忠敬

だいごただゆき

醍醐忠敬とは江戸時代後期から明治時代の公家。

概要

権大納言侯爵醍醐忠順の次男。


プロフィール

時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕嘉永2年10月4日(1849年11月18日
死没明治32年(1899年)5月23日
官位従三位
主君明治天皇
氏族醍醐家
父母父:醍醐忠順
子女為子、忠重、静子、信子

経歴

戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督として転戦。戦後永世賞典禄六百石を下賜し従三位。維新後は留守権判官、元老院議官、錦鶏間祗候に就任。


殺害事件

元来家督は兄の忠告が継ぐべきだったが、病弱だったため父忠順は忠敬を後継者としていた。それに不満を持ったのが忠告の長男・格太郎であり、やけを起こした格太郎は放蕩にふけった。

その後忠告は病死し、明治32年(1899年)3月に格太郎は麹町の醍醐邸を出ていき、乳母の息子の家に厄介になる。この頃には格太郎の借金は400円(現在の150万円相当)に膨れ上がったが、醍醐家にもゆとりはなく、忠敬は甥の借金返済を工面することができなかった。

同年の5月23日に忠敬は男爵四条隆平と談笑していたところ侵入した格太郎に拳銃で撃たれ、忠敬の娘為子も撃たれた。格太郎は隆平によって取り押さえられ、通報した警察によって逮捕された。忠敬は死亡、為子は重傷を負い、格太郎は無期徒刑(無期懲役)の判決を下された。

この事件は華族でのスキャンダルとなり、家督は父忠順が再び継いだが翌年に死去。忠敬の長男で後継者の忠重一条公爵家に引き取られ、醍醐侯爵家は一時的に没落の憂き目にあった。


子女

長男:醍醐忠重

長女:小倉為子(最初は浅野忠純夫人後に小倉英季夫人)

次女:水野信子(水野忠亮夫人)

三女:木辺静子(木辺孝慈夫人)


外部リンク

醍醐忠敬 - Wikipedia


関連タグ

公家 醍醐家 明治時代

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