概要
「史記」によると、紀元前229年頃に秦の武将として表舞台に姿を現すが、それ以前の経歴は不明。王翦が数十万の軍の指揮を執って趙と対峙した時に李信は趙の太原・雲中に出征していた。
紀元前227年、燕の太子丹が差し向けた刺客・荊軻による秦王政暗殺未遂事件が起き、翌年にその報復として王翦と王賁らが燕へ出兵、燕都・薊を攻略し、燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた。この際、李信は約千の兵の指揮を執って燕軍を追撃した。
紀元前225年、秦王政が楚を征伐することを考え、どれだけの兵力が必要かを諮問した。その時、李信は「二十万」が必要だと語ったが、王翦は「六十万」が必要だと語った。秦王政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用し、蒙恬とともに軍の指揮官として楚侵攻を命じた。
李信は二つの部隊に分け、李信は平輿に、蒙恬は寝丘に進軍しそこで楚軍に大勝した。李信と蒙恬は、楚の首都・郢周辺を攻め、再び楚軍を破る。しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、楚の大将軍・項燕が三日三晩の強行軍で追跡して奇襲したことで、二ヶ所の塁壁を破られ七人の武将を失う大敗を喫してしまう。翌年、李信と交代した王翦と蒙武が六十万の兵で楚を攻め、楚を滅亡させてしまう。
紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、燕を滅ぼし、さらに、代を攻めて代王嘉を捕え、代を滅ぼした。
紀元前221年、王賁と蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼした。
余談
「史記」にも散文的な記述しか残っていないが、若くして秦の武将として活躍してきたことはたしかなようである。史記は紀伝体(年表で歴史を語るのではなく、歴史において活躍した個人を中心にまとめた歴史書形態)であり、活躍したその時代の人間には個別に項目が立てられているのだが、李信については個別の記述が無くどういう人間であったのかは分かっていない。
おそらくその後の秦がたどる滅亡と動乱によって李信の記録は失われていったのであろう。
確かなことは秦の統一事業に関わっていた中心メンバーの一人であり、その子孫たちも代々人物を輩出しているということである。
子孫として最も有名なのは唐の詩人:李白だろう(ただし、あくまで民間での伝承の一つに過ぎず、史実においては、李白はそもそも漢人ではないという説も出ているほどで、出身は謎となっている)。
主な活躍としては燕・代・斉の攻略が上げられる。最大の汚点である項羽の祖父・項燕によって大敗を喫しているが、失態を犯したものの(処罰に厳しい秦国にも関わらず)粛正されることもなく、その後も将軍として活躍していたことから秦王政には信用されていたと考えられる。