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安宅冬康の編集履歴

2011-09-25 00:57:26 バージョン

安宅冬康

あたぎふゆやす

戦国時代の武将で主に淡路国(現在の兵庫県の淡路島周辺地域)を拠点とした淡路水軍大将であり、室町幕府の管領代として幕府の実権を握った兄・三好長慶の片腕として活躍した。

概要

享禄元年(1528年)~永禄7年5月9日(1564年6月17日)


室町幕府の室町幕府の権力者・細川晴元の家臣である三好政長の三男として生まれる。実兄は三好長慶三好義賢で、実弟は十河一存


父・元長が対立していた細川晴元、三好政長が煽動した一向一揆軍によって攻められ、落命した当時、兄の長慶達と共に細川晴元によって畿内を追われ、淡路島に逃れていた。そこで冬康は三好長慶の後押しで淡路の水軍衆を率いていた安宅治興の養子となって家督を継ぎ、以後、長兄の長慶が摂津・河内・和泉の兵を、次兄の三好義賢が阿波衆を、四男の十河一存が讃岐衆を、そして三男の安宅冬康が淡路衆(淡路水軍)を率いるという体制で各地を転戦し、かつ兄の三好長慶を補佐、また永禄4年(1561年)に弟の十河一存、永禄5年(1562年)に次兄の三好義賢、永禄6年(1563年)に長慶の嫡男・三好義興が相次いで没した後も、冬康は三好一族の生き残りとして三好長慶を支え続けた。


だが、長慶の家臣である松永久秀が「安宅冬康に逆心がある」という讒言を長慶に告げた事により、冬康は無実の罪で兄の長慶に自害を命じられ、兄に居城である河内飯盛山城にて自害した。享年36歳。


冬康が自害した後、彼の無実を知った三好長慶は大変なショックを受けて精神を病み(鬱病に罹ったといわれている)、その2ヵ月後に冬康の後を追う様にして亡くなったという。


人物

冬康は普段、穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返していた兄・長慶に対して「鈴虫でさえ大事に育てれば長生きを致します」と言って無用な殺生を諌めたという逸話が残っている。


「南海治乱記」では、「三好長慶は天下を制する事の出来る人物である。入道実休(三好義賢)は謀将である。十河一存は勇将である。安宅冬康は国家の事を深く思いやる仁将である」と評されている。


冬康、及び三好長慶の没後、三好家は実権を家臣の松永久秀や三好三人衆(岩成友通、三好長逸、三好政康)に掌握されて事実上崩壊、滅亡へと向かってゆく事となる。


織田信長を始めとする戦国大名が建造した「安宅船」の語源は、実は冬康の淡路水軍であるとも言われている。


冬康は和歌に優れ、「安宅冬康句集」「冬康長慶宗養三吟何人百韻」「冬康独吟何路百韻」「冬康賦何船連歌百韻付考証」など、数々の歌集を後世に残している。中でも代表的な歌は、


古(いにしえ)を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを


(意味:古き時代の物事を記した文物、 史跡も失くなってしまった。憂い深い事である。 それが無ければたとえ後世にあっても伝わる事はないだろうに。)


である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。尚、歌の師は里村紹巴、宗養、兄の三好長慶である。


戦国大戦

CV:浜田賢二

Pixivの大半は戦国大戦に関連するイラストである。カードイラストでは淡路水軍の大将らしく、大海原を悠然と眺めた姿で描かれている。


スターターに封入されているカードで(他には「戦国大名」カードとしての織田信長武田信玄上杉謙信、そして冬康の実弟である十河一存が封入されている)、通常のゲーム終了後の武将カード排出では入手が出来なくなっている。スペックとしては1コストの槍足軽で特技は無いものの、武力と統率が共に3とバランスが均等に取れたカードであり、混色で組む場合でもコストが妨げにならず出向く事がある。


計略「長槍の構え」は武力が上がり、槍の長さが通常の2倍ほど長くなるもので、それによって騎兵、特に速度上昇系統の計略を持つ武将(例:SR山県昌景高坂昌信、SR上杉謙信加藤段蔵など)の迎撃や牽制役としての活躍を果たしている。


但し、武力上昇値はそれほど高くなく、乱戦に持ち込まれると槍の穂先を消されたりしてほぼ無力と化すため、油断は禁物。


さあ、大海へと漕ぎ出そうか。


関連項目

三好長慶 三好義賢 十河一存 松永久秀 戦国大戦

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