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鶴見五郎の編集履歴

2020-05-27 16:41:30 バージョン

鶴見五郎

つるみごろう

「鶴見五郎」は日本の元プロレスラー。(最後尾の旗を持っている人物)

概要

1948年11月23日生まれ、神奈川県横浜市出身。

本名・田中 隆雄。身長181cm、体重135kg。


東海大学理学部物理学科に入学、勉学と共にレスリングに励むが、当時大学にレスリング部が無く、独自に練習していた。

1971年6月、サンダー杉山の知り合いのつてで国際プロレスに入門、7月12日、札幌中島スポーツセンターでの大磯武戦にてデビューする。

1973年3月、八木宏(後の剛竜馬)と共に海外武者修行のため、ヨーロッパに渡り、主に西ドイツにて活動しながら、イギリスに渡り『蛇の穴』と呼ばれたビリー・ライレージムにてランカシャーレスリングを学ぶ。

(因みに、ジム出身者にカール・ゴッチビル・ロビンソンウィリアム・リーガルrを輩出した。)

その後メキシコに渡り活動、1975年、帰国して中堅レスラーとして活動。

1979年10月3日の青森県黒石市大会で会場入りした際に自分のカードが組まれていなかったことから始まったトラブルで選手会から除名、更に胸に髑髏のマークを付けた黒いコスチュームに変えヒールに転向、『独立愚連隊』を結成。実はこの時、経営悪化の為に外国人選手の招へいに悩んだ吉原功社長が考えたアングルだったとのことらしい。

国際プロレス解散の半年前に『独立愚連隊』解散、国際プロレス最後の試合を務めた後に海外転戦を経て、フリーランスとして全日本プロレスに登場。

当初は外国人サイトについていたが、1984年のリーグ戦の最終日には、ラッシャー木村、アポロ菅原、剛と共に『国際血盟軍』を結成するが、全日本における日本人選手が飽和状態となり、1986年に初期メンバーの剛・菅原・1985年6月に加入した高杉正彦の3人が整理解雇され解散。

その後ジャイアント馬場と木村のファミリー軍団入りを直訴して認められそうになった矢先の

1990年に、自ら将軍KYワカマツに連絡を取り、SWSへ移籍、『道場・檄』所属となる。

1992年崩壊後、『道場・檄』とジョージ高野が率いる『パライストラ』のメンバーと共にNOWに参加するも崩壊、その後、IWA格闘志塾を旗揚げしてインディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟、FMWや「宇宙パワー」としてPWCにも上がる。

ユニオン崩壊後は国際プロレスプロモーションと変えて地元横浜市鶴見区、茅ヶ崎市を中心にトレーニングジムの経営と平行して小規模に活動するが2006年7月に引退を表明する。


2013年8月22日、新宿FACEでDDTとプロレスリングFREEDOMS全面協力の下で引退試合を行った。


得意技

  • アバランシュバックドロップ

雪崩式バックドロップ。

  • ゴロースープレックス

真横から相手の片方の太股を抱えるようにして股の下でクラッチして持ち上げて後方へ反り投げる。

  • バックブロー(裏拳)

裏拳用グローブを装着、これをトレードマークにしていた。


関連タグ

プロレス


高木三四郎…IWA格闘志塾時代の弟子。

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