スペイン内戦
すぺいんないせん
背景
この時代のスペインでは200年以上続いていた王朝の崩壊、第一次世界大戦による経済不況、 カタルーニャ地方などの独立運動、右翼と左翼の対立、宗教対立などの問題によりカオスと化していた。
そのような中、1936年に社会主義をスローガンに掲げる、左派が団結した人民戦線が政権を獲得。農民や労働者の支持を背景に社会主義的な政策を進めていくこととなる。
一方資本家やカトリック教会などの保守勢力はそれに対して反感を抱く。その代表的存在がスペイン軍元参謀総長であり、右派の有力者のフランシスコ・フランコであった。
経過
開戦
1936年7月17日、スペインの植民地のモロッコにて軍の反乱が発生。当時カナリア諸島に左遷されていたフランコは7月18日にクーデター宣言を出し、内戦が始まった。クーデター宣言の翌日には反乱はスペイン全土に広がり、また労働者たちも民兵として反乱軍側と戦闘を開始、スペイン全土が政府軍の共和派と反乱軍の国粋派による戦火に包まれた。
フランコは、内戦は数日で終了すると予想していたが、民兵が予想以上に奮戦したためマドリードやバルセロナなどの主要都市のほとんどの反乱は共和派に占領されてしまった。そのため戦況は停滞状態だった。
戦火の拡大
しかし8月に入ると情勢は大きく変わる。ヒトラー率いるドイツ<ナチス、ムッソリーニ率いるイタリアというファシズムの二大国が国粋派の支援を表明したのだ。これにはドイツ、イタリア両国がファシズムを掲げていたため国際的に孤立していたこと、ドイツに関しては再軍備をしたばかりなので実戦の腕試しという狙いがあった。一方共和派にはソビエト連邦とメキシコが支援を表明した。…のはいいものの、ソ連の支援は大規模だが有償、メキシコに至っては雀の涙程度で国粋派ほど効果を発揮できなかった。
[イギリス]]、フランス、アメリカなどはこの内戦が世界を巻き込む大戦に発展することを恐れ、介入を避けた。(ここで介入していたら後に何十倍もの被害を出す第二次世界大戦を回避できたかもしれない、と介入しなかったことはしばしば歴史家、専門家によって非難されている。)
ドイツやイタリアは義勇兵の派遣、共和派諸都市への空爆などにより共和派に多大な被害を与えた。一方、国粋派が優勢になるにつれ彼らの占領地での残虐行為が目立つようになり国際社会の反感を買っていった。
そのため、戦争中盤には各国から知識人を主とする志願兵が共和派の兵士として活動した。
終戦
1938年に共和派はスペイン北東のエルベ川周辺にて最後の攻勢に出る。当初は押し返したがファシズム諸国の増援によってずるずると戦線が後退していき、11月16日には共和派の軍が壊滅敗北が決定的になってしまった。
その後1939年1月にバルセロナが陥落、同年3月には共和派の本拠地のマドリードを含むスペイン全土が国粋派によって制圧され、スペイン内戦は国粋派の勝利に終わった。