安政の大獄
あんせいのたいごく
事件の背景
1853(嘉永5)年のペリーの浦賀への来航をきっかけに、幕府はこれまでの鎖国政策を放棄し、開国へと方針を転化したが独力でこの国難を乗り切る自信がなかったためアメリカとの和親と通商条約の調印するにあたって朝廷(孝明天皇)と諸侯たちに許可を募ることでこれらの政策の正当性を強固にするものであった。
しかし、朝廷は長年政治から離れていたことで海外の情勢に疎く、「断固攘夷すべし。夷敵に神国日ノ本の土を踏ませるなどあってはならぬ」とこれまでの鎖国政策を継続するよう主張し、前水戸藩主の徳川斉昭も攘夷を声高に主張した。
この状況の中、病死した第13代将軍・徳川家定の継嗣問題が発生する。当時将軍候補として一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)と徳川慶福(後の14代将軍・徳川家茂)が挙がり、慶喜を推す一橋派と慶福を推す南紀派に分かれ激しい争いが始まった。
井伊直弼は開国論者でもあり、安政5(1858)年に大老に就任すると朝廷の勅許を得ずに日米通商修好条約に調印してしまう。同時に、南紀派に加担し家定の次期将軍に慶福が就任することとなった。
孝明天皇は井伊の専横に激怒し、当時6歳であった睦仁親王(後の明治天皇)に譲位するとまで言い出した。そして、水戸藩に攘夷の密勅を出す。また、攘夷派の志士により井伊を屠らんとするテロ行為も画策されていた。これが井伊に知られてしまい、井伊による空前絶後の大弾圧が始まった。
同年9月、井伊は梅田雲浜に代表される攘夷派の逮捕を開始し、大獄は朝廷の公卿や幕臣の中で井伊の方針に異を唱えていた者たちにも及んだ。
特に、江戸に護送された志士に対しては井伊によって類を見ない苛烈な刑が翌6年いっぱいをかけて下された。
受刑者たち
死刑、獄死
安島帯刀…水戸藩家老、切腹
鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居役、斬罪
鵜飼幸吉…水戸藩京都留守居役助役、獄門
茅根伊予之介…水戸藩奥右筆、斬罪
梅田雲浜…元小浜藩士、獄中で病死
頼三樹三郎…京都町儒者、斬罪
橋本左内…越前藩松平春嶽家臣、斬罪
吉田松陰…長州藩毛利敬親家臣、斬罪
日下部伊三治…薩摩藩士、斬罪
永蟄居
徳川斉昭…前水戸藩主
岩瀬忠震…幕臣、作事奉行
永井尚志…幕臣、軍艦奉行
国許長押込
大山綱良…薩摩藩士
事件のその後
この事件は日本中の尊皇攘夷派志士に衝撃を与えた。この事件の一年後の冬、井伊は駕籠で登城する途中に薩摩藩出身の有村次左衛門や水戸藩出身の関鉄之助らに斬殺されこの世を去る。世にいう桜田門外の変である。
これにより既に死亡している者以外の復権がなされ、一橋派が政権を掌握することとなる。
他方南紀派は、大獄の責任を問われ以下の処分が下された。
井伊直憲(彦根藩主、直弼嫡男)…10万石減封
間部詮勝(老中)…隠居謹慎、1万石減封
松平宗秀(京都所司代)…罷免
石谷穆清(江戸城西丸留守居)…罷免、隠居
池田頼方(寄合肝煎)…罷免
久貝正典(大目付)…免職、隠居、2000石減封
小笠原長常(江戸北町奉行兼政事改革御用掛)…免職、隠居
長野主膳、宇津木景福(彦根藩士)…斬首
上記の処分に憤慨した彦根藩は藩の思想を佐幕から討幕へと変換し、後の戊辰戦争で新政府軍に加担することとなる。