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武田信繁の編集履歴

2021-05-19 00:59:19 バージョン

武田信繁

たけだのぶしげ

武田信繁とは、甲信地方の戦国武将。兄である武田信玄を補佐した「まことの武将」であり、官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」とも呼ばれている。(1525年-1561年)

概要

甲斐武田氏18代目・武田信虎の子として大永5年(1525年)に生まれる。

信虎からは幼少の頃より寵愛されており、長兄の晴信を廃して家督を譲ろうとしていたほどであったと伝わっている。

その晴信が天文10年(1541年)に家督を相続して以降は、御一門衆の筆頭として晴信の補佐に当たり、軍事・政務の両面において、信濃侵攻や村上攻めを始めとする武田氏の版図拡大に貢献している。

天文19(1550)年に信玄の嫡男・義信が元服すると、義信への配慮からか翌天文20(1551)年には武田氏の庶流・吉田氏の名跡を継ぎ「吉田信繁」を称したとされる(『高白斎記』)。


永禄4年9月10日(1561年10月18日)、第4次川中島の戦いにおいて、上杉軍に裏を掻かれて本陣を急襲され必死に応戦するが、奮闘虚しく37歳で討ち死にを遂げる。兄・信玄や武田家臣団のみならず、上杉謙信織田信長などからもその死を悼まれていた。また義信の事実上の後見人とも言える信繁が戦死しなければ、後年の信玄と義信の対立もなかったのではないか、とさえ評された。


信繁死後は長男で信濃の豪族である望月信雅の養子になっていた信頼(義勝とも)も父の後を追うように亡くなっていたので、次男の信豊が信繁の吉田家を継ぎ、三男の信永が義勝の代わりに望月家に入った。信豊も父同様「典厩」を称したので「後典厩」と言われた。


その評価の高さは江戸時代に至ってもなお健在であり、信繁が信豊に残した「武田信繁家訓」が当時の武士の心得として読み継がれていた程であった。

ドラマなどでの演者

NHK大河ドラマ

映画・民放ドラマ

  • 田村正和:映画『風林火山』(1969年)
  • 石田太郎:映画『天と地と』(1990年)
  • 川野太郎:日本テレビ年末時代劇スペシャル『風林火山』(1993年)

ちなみに若松氏と田村氏は奇しくも2021年4月に逝去している。


関連タグ

武田信玄 戦国時代 戦国武将

内藤昌豊:信繁没後の武田軍の副将、信繁と並んで「毎事相整う真の副将なり」と評される

真田信繁:武田信繁にあやかって命名されたと伝わる

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