- ロシア語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев
- ウクライナ語:Леонід Ілліч Брежнєв
- ラテン文字表記:Leonid Il'ich Brezhnev(この他にもある。)
(1906年12月19日 - 1982年11月10日)
概要
1906年12月19日にロシア帝国のエカテリノスラフ県カメンスコエ(現在のカーミヤンシケ市)で、父のイリヤ・ヤコヴレヴィチ・ブレジネフと母のナタリア・デニソヴナ・マザロワの間に誕生する。本名はレオニード・イリイチ・ブレジネフ。第4代ソビエト連邦最高指導者で、党書記長(当初は第一書記)、最高会議幹部会議長を兼任した。
フルシチョフ失脚後に党第一書記(党指導者)となり、アレクセイ・コスイギン閣僚会議議長(首相)、ニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長(国家元首)とのトロイカ体制を敷いた。1977年からは最高会議幹部会議長も兼任した。最高指導者としての在任期間はスターリンに次いで長い。
KGBを強化してスターリン時代の抑圧的政策へ回帰し、ソ連の文化・技術・経済を停滞させた一方で、アメリカのニクソン大統領との交渉によりソ連の勢力圏に干渉しないことを承認させ、国威を発揚した。冷戦時代にアメリカと対抗する為、重厚長大産業に莫大な国費が投じられる一方で国民の生活水準は向上せず、特権階級が「非公式経済」を享受する為の汚職が蔓延った。また、ブレジネフとその親族も私腹を肥やし続けた。ちなみにロシアが経済的に破綻した現在では、ブレジネフ時代を懐かしむ国民も多い。
外交
アメリカ合衆国
1971年の国際連合でのアルバニア決議にはソ連も賛成して中華人民共和国が国際社会から承認を得るも、1972年2月のニクソン大統領の中華人民共和国の訪問に始まった米中接近を受け、ソ連に対する米中同盟を防ぐ為にブレジネフはアメリカとの交渉の新ラウンドを開いた。同年5月にニクソン大統領がモスクワを訪問し、米ソ両首脳は戦略兵器制限条約に調印してデタント(緊張緩和)の始まりとなった。1973年1月のパリ和平協定はベトナム戦争の公式な終了となり、米ソ関係の障害は取り除かれた。ブレジネフは5月に西ドイツを訪問し、6月にはアメリカへの公式訪問を行った。
「デタント」時代におけるブレジネフの功績は、1975年7月のフィンランドのヘルシンキにおける全欧安全保障協力会議(CSCE)でヤルタ体制を認めさせたことであった。引き替えにソ連は「参加国は思想・良心・宗教・信仰の自由を含む人権及び基本的自由を人種・性別・言語あるいは宗教に関する区別無く尊重する」ことに合意した。しかし、これらの成果は国民からは尊敬されなかった。また、アメリカ国内ではデタント・プロセスを「緊張の弛緩」に関する楽観的なレトリックだとして政治的な反対が募り、ソ連とその衛星国での国内自由化とは一致しなかった。第3次中東戦争で高まったソ連国内のユダヤ人迫害からの移住問題は米ソ関係の障害となり、1974年11月にウラジオストクにてブレジネフとフォードが会談を行ったが、これらの問題の解決には至らなかった。
米ソ関係は核拡散防止条約が締結されたことに象徴された時は良好であった。リンドン・ジョンソンのモスクワ訪問が予定されていたが、チェコスロバキアへの軍事介入に対する抗議として訪問は中止された。しかし、アメリカ及びNATO諸国は、口頭での非難以外に具体的な行動を採らなかった。この事はヨーロッパにおけるソ連の勢力圏には干渉しないという暗黙のルールが承認されている事を意味した。
日本
1972年に田中角栄首相と日ソ共同声明を発表した。「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決」という文言で、北方領土問題に連なる領土問題を解決した上で平和条約を締結することを認め、ヤクートの天然ガス・チュメニ油田・サハリン大陸棚の共同開発などによる日本との経済協力を打ち出した。
経歴
1923年 | コムソモール(共産主義青年同盟)に加入。 |
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1928年 | ヴィクトリア・ペトロヴナ・デニソワと結婚。 |
1931年 | 共産党に入党。 |
1933年 | 長女のガリーナが誕生。 |
1933年 | 長男のユーリが誕生。 |
1939年 | ウクライナのドニエプロペトロフスク州共産党委員会書記となる。 |
1941年 | 独ソ戦が始まる。軍の政治委員として活動した。 |
1943年 | 第18軍の政治部長となり、年末に第18軍は第1ウクライナ正面軍傘下となった。第1ウクライナ正面軍の上級政治委員はニキータ・フルシチョフであった。 |
1946年 | 少将の階級で赤軍を去り、ドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰し、第一書記となる。ブレジネフはドニエプロペトロフスク州での人脈を権力強化に利用し、彼らは「ドニエプロペトロフスク・マフィア」と呼ばれた。 |
1952年 | 党中央委員会及び最高会議幹部会のメンバーとなる。 |
1953年3月5日 | スターリンが死去。ブレジネフはフルシチョフの後援により軍政治総局長第1代理に任命された。 |
1955年 | カザフ党中央委員会第一書記となる。 |
1956年 | モスクワへ戻り、フルシチョフの側近となる。 |
1957年 | スターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持し、政治局のメンバーとなる。 |
1960年 | 最高会議幹部会議長となる。西側への外遊により、高級車やブランド品への欲望が高まる。 |
1963年 | フルシチョフは自らへの権力集中により党内での反発を招き、ブレジネフもフルシチョフ追放計画に加担した。 |
1964年 | フルシチョフが失脚し、ブレジネフは党第一書記となる。 |
1965年 | アナスタス・ミコヤンも失脚した。共産党はブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイのトロイカ体制となる。コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招き、ブレジネフの発言権が増す。 |
1966年 | 「党第一書記」をスターリンの肩書であった「書記長」に戻す。 |
1968年 | チェコスロバキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクによる改革(プラハの春)に危機感を持ち、「修正主義」と批判。ワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は、西側では「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれた。ソ連に対する期待が失われ、国際共産主義運動は分裂した。 |
1969年 | ウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で中ソ両国が武力衝突し、ブレジネフの在任中は中国との関係は悪化し続けた。 |
1972年 | 米ソ首脳が戦略兵器制限条約に調印した。ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を推し進めた。その一方で第3次印パ戦争(1971年)、第4次中東戦争(1974年)、アンゴラ内戦(1975年)、エチオピア・ソマリア戦争(1977年)など米ソの代理戦争が行われた。 |
1976年 | 軍隊を指揮した経験無しにソ連邦元帥となる。健康状態が悪化したブレジネフは権力に強く執着するようになり、数々の勲章で自らを飾ったが国民からの尊敬を得られなかった。 |
1977年 | ポドゴルヌイに引退を強要し、ブレジネフが最高会議幹部会議長を兼任した。最後となる憲法改正(ブレジネフ憲法)を行う。 |
1979年 | アフガニスタンへの軍事侵攻を決定する。アメリカとの緊張緩和は終焉し、再び始まった軍拡でソ連経済は悪化した。 |
1980年 | 共産圏初開催のモスクワオリンピックは、アフガニスタン侵攻を非難する諸国からボイコットされた。 |
1982年11月10日 | 心臓発作により死去し、赤の広場に埋葬される。75歳だった。 |
アネクドート
ブレジネフ関係のアネクドートは無数にある。
『ブレジネフが誘拐されて誘拐犯から電話があった。「100万ドル払え。さもないとブレジネフを生かして帰す」』
『モスクワオリンピックでブレジネフが演説を始めた。「O! O! O! O! O!」側近が演壇に駆け寄ってささやいた。「レオニード・イリイチ、それはオリンピックの旗です。読む必要はありません」』
『ブレジネフは母親に偉くなったところを見せようとモスクワへ呼んだ。豪華な執務室・幹部用住宅・幹部用別荘などを連れ回すにつれ、母親の顔は暗くなった。「お前が偉くなって嬉しいよ。でも、ボルシェビキの連中に殺されないかね?」』
以上のものなどがある。ブレジネフが共産党幹部となった後も、母のナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。
【参考文献】
レオニード・ブレジネフ(サカルカ)
関連タグ
党中央委員会書記長
(前任者)ニキータ・フルシチョフ
(後任者)[[ユーリ・アンドロポフ]