概要
円谷英二の次男で、円谷プロダクション3代目社長を務めた。ちなみに2代目社長円谷一は兄、4、8代目社長円谷一夫は息子、5代目円谷昌弘、6代目円谷英明は甥にあたる。
経歴
1935年、円谷英二の次男として生まれ、成城大学文芸部卒業後フジテレビに入社。1962年に東宝との専属契約が切れた父英二をフジテレビが担って、テレビ業界への参入を説得するも失敗。
しかし翌年、東宝の出資とフジテレビの後押しもあって後に円谷プロダクションとなる円谷特技研究所が設立。
1965年、手塚治虫原作のテレビアニメ『W3』のプロデューサーを担当。1966年初頭に『W3』の裏番組として、『円谷特技プロダクション』製作の『ウルトラQ』がTBSで放映開始。前年から皐が製作を務めていたこの『W3』の視聴率が一気に一桁台に低下。「(喜び半ばの)複雑な気分だった」と述懐している。この年、アニメ番組『ロボタン』のプロデューサーを担当。
1968年、英二の体調悪化に伴いフジテレビを退社。円谷プロの経営と営業を担当し、資金繰りのために円谷エンタープライズを設立。東宝の増資を受けて一息ついたことで『円谷特技プロダクション』を『円谷プロダクション』と社名変更し専務に就任する。しかしその際、増資の救済策として150人いた社員を40人にまで削り、結果として金城哲夫等優秀な人材を失わせてしまった。
1973年、2代目社長であった兄の一の急逝を受けて円谷プロ3代目社長に就任する。
無思慮すぎた海外展開
第一次オイルショックに伴う第二次怪獣ブームの終焉で再び危機を迎えたため、様々な模索を測り、新分野への進出を図った。
最初に東南アジアへの開拓のためにタイのチャイヨー・プロダクションと提携して『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』『ジャンボーグA&ジャイアント』などの合作映画を実現させるが、資金面では貢献しなかった上、この時期にチャイヨー社と皐の交わした(と、チャイヨーが主張する)契約内容を巡っては、『ウルトラマン訴訟』問題として2020年に終息するまで長い遺恨を残すこととなった。
自身の事は天才型である父や兄とは同じ土俵では戦えないとしており、海外に新天地を求めて大出資の末アニメ映画『ウルトラマンUSA』を製作。その後も『ウルトラマンG』『ウルトラマンパワード』を製作した。
だが以外に好調だった『パワード』の売り上げが幹部の遊興費に費やされていた等、その経営はとんでもく適当なものだった。
TBSとの確執
1979年、当時のアニメブームに伴い初のアニメウルトラマンである『ザ☆ウルトラマン』を製作し、これが一定の評価を得ると実写版への声も高まったため『ウルトラマン80』を製作する。
しかし『80』は当初TBS側の意向で教師ものとなったものの、様々な制約を受けての路線変更となってしまい結果低調に終わったことに対して「我々が作り育ててきたウルトラマンをどうする気か」とTBSに不満を述べた結果、「お前が作ったわけではない」と言い返され「TBS役員室に出入り禁止」となってしまい、新作の放送が絶望的となりのちの世代に通年、全国放送ができなくなる元凶となった。しかし皐本人はこの『ウルトラマン80』が一番プロデュース作品として印象深いと述べている。
適当な経営ぶり
円谷プロがキャラクタービジネスで成功を収めると円谷エンタープライズ名義による借金で藤沢市にプール付きの豪邸を購入する他、愛人を侍らせ、豪華マンション・ゴルフ場の会員権を買い込んだ。甥の円谷英明は会社の資産確保の面もあったかもしれないと語っており、第二次怪獣ブーム終焉とともに、資金繰りとして豪邸は買値の倍以上で売れたという。先述のウルトラマン訴訟の問題も、社判は円谷プロではなく円谷エンタープライズの者ではないかとされている。
死んでも続く確執
1995年6月11日、胃がんにより死去。享年60歳。しかし遺言として息子の円谷一夫を成り立てることと甥の英明を経営から追放することを子飼いの役員に語っていた。
しかし彼が逝去した後も数多くの問題やお家騒動といった確執を生むこととなる。
その他事業
本人は音楽の道を志望していたらしく、谷のぼる名義でウルトラシリーズ関連の音楽の作詞家として活動もしていた。1991年には、「素敵な出逢いを有難う」で歌手デビューもしている。NHKの歌唱オーディションにも合格しており、「紅白歌合戦に出たい」と語っていた。
90年代にはディズニーランドを参考に「ウルトラマンキッズ」など、ウルトラシリーズのキャラクターを使ったキャラクターグッズの展開を積極的に行い、キャラクターショップを全国に展開、ビジネスマンとしての手腕を発揮した。また、タレントとして自ら同社のテレビコマーシャルにも出演したり、歌手としても活躍した。また「ウルトラマンフェスティバル」を企画し、定期公演を行った。