アイザック・ニュートン
あいざっくにゅーとん
生没年月日:ユリウス暦 1642年12月25日生-1727年3月20日没、グレゴリオ暦 1643年1月4日生-1727年3月31日没
フルネーム:サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)
イングランドの自然哲学者、数学者、天文学者。現代では物理学者・科学者ともされるが、当時の科学は哲学と分化しておらず、"scientist"(科学者)という語が造語されるのは、はるか後の時代、1833年のことである。
名前に「Sir」が付くのは、1705年にイギリスの貴族階級であるナイトに叙されているため。
業績
「万有引力の法則」「微分積分」「プリズムによる分光スペクトル」はニュートンの三大発見とされている。ケプラーによる惑星の公転を力学的に証明したのも彼であり、地動説の大成に尽力した。1687年に発表した著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)は古典力学の基礎を築いたとされている。
逸話
26歳の時にケンブリッジ大学でルーカス教授職に就任、29歳の時には王立協会の会員に選出されて加入している。
また、意外な経歴として、53歳で王立造幣局の監事に就任、56歳で昇格する形で長官を務めたこともある。
経緯としては財務大臣になった教え子チャールズ・モンタギューがニュートンの猟官活動を見ていてニュートンを推薦したことで就任したもので、モンタギューとしては当時閑職と見られていた造幣局の監事に推薦することで、プリンキピアを仕上げた恩師に休息のひとときをと思っていたらしいのだが、当時の王立造幣局の監事・長官には通貨に関する警察権があったのが非常にマズかった。
これが、国王の肖像が入っている通貨の偽造を非常に憎んでいたニュートンの性に合ってしまったらしく、造幣局の仕事にのめりこんでしまうきっかけになり、長官になって当局から「年金を出すから辞めてくれ」と言われても辞めずに亡くなるまでその地位にあった。
ニュートンが造幣局監事に就任した頃のイギリスでは通貨の偽造が横行していたのだが、国王の肖像が入っている通貨の偽造を非常に憎むニュートンは、調査を行って国内で流通する通貨の1割が偽造通貨であることを報告、当時の王立造幣局の監事・長官には通貨に関する警察権があることを利用して通貨偽造シンジケートの撲滅を目標に徹底した摘発を行い、一時は証拠不十分で無罪を勝ち取った通貨偽造シンジケートの大親分から訴訟を起こされて侮辱の言葉を浴びせられるに至ったこともあったが、その怒りの勢いを地道で執念深い容赦のない追求に傾け、ついにこの通貨偽造シンジケートの大親分を捕えて裁判にかけ、地道で執念深い容赦のない追求で積み上げた言い逃れのできない証拠を突きつけ、先の侮辱の言葉を浴びせられた怒りの記憶の勢いも加わって情状の余地なしとして死刑(※1)にし、本当に巨悪を倒してしまった。この功績は長官に推薦される際の理由の一つになっている。
この時のみずからが指揮しての通貨偽造犯の摘発は見事なものであったと伝えられる他、当時の通貨偽造の手段が本物の貨幣の側面を少量ずつ削り取って集めたもので偽の貨幣を鋳造するといったものであったため、長官時代には持ち前の手先の器用さ(※2)を活かして貨幣の側面を削り取れないよう側面にギザギザを付ける貨幣鋳造技術の開発、紙幣の導入にあたっての偽造防止のための印刷技術の向上などの功績もある。
そのようなこともあって、イギリスの造幣業界においては、大規模な通貨偽造シンジケートを倒して偽造通貨で混乱した状況から国を救い、通貨偽造防止技術の発展に貢献した、通貨の守護者としての義務を忠実に果たした人物として扱われており、現在のイギリスで流通する最高額貨幣である2ポンド貨幣にはニュートンの言葉である「STANDING ON THE SHOULDERS OF GIANTS(※3)」が周囲に刻まれている。
58歳の時に庶民院の議員になり、60歳の時には王立協会の会長にも就任した。
ニュートンの一生は、当時のイギリスにおける学界の頂点を極めて大学教授と王立協会長の座を手に入れ、高級官僚としても巨悪を倒して王立造幣局長官の座を手に入れ、政界で議員の椅子まで手に入れた非常に名誉ある生涯だった。
※1:当時のイギリスでは、国王の肖像が入っている通貨を偽造することは大逆罪に該当する重罪で法定刑が死刑だった。
※2:ニュートンは、不足する実験器具があった場合、それを自作してしまうくらい器用な人だった。
※3:直訳で「巨人達の肩の上に立って」という意味。真意としては「偉大な先人たちの発見・発明を基礎に我々は発展してきた」という意味がある。