概要
天動説とは異なり、紛れもない現実である。
地動説が天動説に打ち克つまで
……が、困った事に、16世紀にコペルニクスが初めてこの説を提唱した時点では、
- 当時の天動説は理論の精緻さと予測精度に関しては、ほぼ完成の域に有り、はっきり言って予測精度ではコペルニクスの学説より遥かに上だった。
- 一方で、理論としてのシンプルさに関しては、「地球を含めた惑星は太陽の周囲を等速円運動している」と云う仮定では、当時の観測精度をもってしても無視出来ない誤差が有り、天動説で惑星の逆行を説明する為に使われていた「従円・周転円」と云う考えを導入せざるを得ず、結果的に同じ時代の天動説よりも複雑怪奇な理論と化してしまった。
と云うかなり残念な代物であり、地動説が天動説よりも理論としての美しさ・シンプルさと高い予測精度を兼ね備えたものになるのには、17世紀初頭のケプラーの3法則を待たねばならない。
そして、ケプラーの3法則に基く地動説は、コペルニクスの説と、地動説と云う点では同じだが、背後に有る思想・世界観は完全に別物と化していた。
ケプラーや、そのケプラーの3法則の背後にある万有引力の法則を理論立てたアイザック・ニュートンによって、「コペルニクスの説の基本的なアイデアは間違いではなかった」と証明された事によって、皮肉にも、コペルニクスの「天体の運動は等速円運動を基本とする」と云う思想・世界観・思い込みも、また、完全に粉砕されたのである。
地動説は天動説と異なり、紛れもない現実なのは確かだが、結果的に正しい学説も、それが認められるまでは紆余曲折が有り、始まりは結構トホホな代物な場合も有る、と云うのも、また紛れもない現実なのは確かである。
歴史
地動説は、キリスト教をはじめとした宗教勢力から弾圧されたという歴史がある。
ただ、それは複雑な経緯があり、少なくとも地動説をコペルニクスが唱えた当初は、キリスト教の教会は、特にそれを異端視していなかった。それどころか、コペルニクス自身が、司教になっているなど、教会に近い立場であった。
この空気が変わったのは、「科学と宗教の対立」というよりも、宗教内部の争いのためである。当時、キリスト教内部では、マルティン・ルターを発端とする宗教改革が起こっており、先鋭化する改革派に対抗するため、保守派もまた先鋭化していった。これに科学者が巻き込まれたのである(というより、中世の時代には、宗教と科学はそこまで明確に分離しておらず、無関係となる事は難しかった)
そんな中で、新たな学説であった地動説に関わる者は、否応なしに改革派として見られた。ガリレオ・ガリレイも、本人は特に宗教改革と深い関わりがあったわけではなかったが、「新しい学説を主張する」「論争相手を徹底的に論破する」などの行為をしており、保守派からはかなり嫌われることとなった。結果として裁判に発展し、その裁判は天動説と地動説の争いであったが、ある一面では宗教の改革派と保守派の闘いでもあった。
前述通り、当時の地動説はまだ穴も多く、そのためガリレオ・ガリレイは有罪となってしまった。そして、この有罪判決の結果、キリスト教の見解は「天動説が正しい」となり、以後、地動説の支持者は迫害を受けることとなった。ただ、教会内部でも地動説の支持者は残っており、徐々に地動説が盛り返していく事となる。
現代では、地動説の話では「科学の宗教の闘争」という物語が語られることが多く、また逆に長らく「科学の宗教の闘争」説が流布していた反動からか、「実はキリスト教は地動説を弾圧していなかったのだ」という極端な説を出してくる者もいるが、そもそも複雑な経緯の結果、起こったことであり、そう単純化できる歴史ではないのである。
ちなみに…
地動説が弾圧されたという話と混同される形で中世ヨーロッパでは地球平面説が信じられていた…と言われることもあるが、これについては明確な誤解である。
あくまで論点となっていたのは「地球が太陽の周りを回っているのか/太陽が地球の周りを回っているのか」という点に関してであり、少なくともコペルニクスより遥か以前の14世紀には地球が球体であることは知識人の共通理解であったと言われている。