概要
母親の療養のため田舎へと引っ越してきた草壁一家の長女、サツキと妹のメイ、日本に古くから住んでいた不思議な生き物トトロとの交流を描いた作品。時代設定は概ね昭和30年代前半とされ、監督宮崎駿によれば「テレビのなかった時代」、「昭和28年(1953年)ごろを想定していた」とのことである。
日本の自然豊かな田舎を舞台にしている。
興行成績は「風の谷のナウシカ」と比べると低かったものの、各所からの評価は公開当時から高く、発売されたビデオやDVDは軒並み高セールスを記録。TV放映でも毎回高い視聴率を記録している。
ちなみに舞台となった松郷集落は宮崎監督が過去に住んでいた町等を色々混ざり合わせており、明確な設定付けはされていない。劇中に登場している地名は埼玉県]所沢市をモチーフにしている(先述の松郷は実在し、七国山は八国山を、前沢は所沢をモチーフとした地名)が、本作の舞台が狭山丘陵である、というわけではない。
「トトロ」の由来は諸説あるが、その中でも「所沢のとなりのお化け」を縮めたものとする説や、宮崎監督の知人の少女が所沢を「ととろざわ」と発音していたことに由来するという説がある。これらを含め、地名だけでなくある程度舞台のイメージとして所沢の影響があったとも考えられる。
ジブリの共同設立者のひとり高畑勲監督は「『トトロ』はぼくらがめざしたものの頂点だ」と述べ本作を激賞している。「宮崎駿のもたらした最大の恩恵はトトロだとわたしは思う。トトロは普通のアイドルキャラクターではない。...トトロは全国のこどもたちの心に住みつき、こどもたちは木々を見ればトトロがひそんでいることを感ずる。こんな素晴らしいことはめったにない。」
キャラクター
サツキ・メイ、トトロ、まっくろくろすけ、ネコバスについては個別の項目を参照のこと。
大学で考古学を研究している。また、生活のために副業として翻訳の仕事をしている。
靖子の療養のために彼の案で松郷の塚森横の家に引っ越した。娘の言うことは他愛のないようなことでも決して無下にしたり否定することはなく、メイが「トトロを見た」と言ったときも「メイは運がよかったんだよ」とメイの発言を肯定的に受け止めている。
彼自身が「妖怪」が好きで、曰く「お化け屋敷に住むのが子供の頃からの夢だった」らしい。普段は優しく、子供の学校でお弁当が始まることを忘れてたりと少々頼りなさげなところもみせたりするが、子供に対して注意するべき時は注意するなど親らしくしっかりしたところもちゃんと持っている。
集落から少し離れた七国山病院(サナトリウム、結核療養所をモチーフとしているが、実際の病名は言及されない)で療養しているサツキとメイの母。入退院を繰り返しており、作中では風邪をこじらせて退院が延期となった経緯が描かれていた。
穏やかな性格で、子供たちのことを気にかけている。
エンディングではようやく退院し、一緒にお風呂に入る様子も描かれている。
カンタのおばあちゃん(CV.北林谷栄)
草壁一家が引っ越してくるまで家を管理していた隣家、大垣家のおばあちゃん。子供の頃はまっくろくろすけが見えていたようで、「ススワタリ」と呼んでいたことをサツキたちに教えている。メイの面倒を見てあげたり、畑の野菜を一緒に収穫したりとサツキたちにとっても実のおばあちゃんの様な存在である。その為、メイのサンダルを神池で見つけたときは誰よりも心配し、念仏まで唱えていた。度々聞かれる「めーいちゃーん!」の台詞が印象的。
大垣勘太(カンタ)(CV.雨笠利幸)
隣家、大垣家の息子。物語冒頭からサツキのことを気にかけ、つっけんどんに振舞うも徐々に優しさも垣間見えるようになった。初対面時に草壁家の新居をお化け屋敷呼ばわりして馬鹿にしたため、サツキに「男のコきらい!」とまで言われたが、最後では自転車で七国山に行こうとするなど心配していた様子が描かれている。
最後、サツキと会話する場面はセリフが無いが、絵コンテによると「自転車がパンクしちゃったからいけなかったんだ」といったことを喋っていたようだ。
サツキが学校で真っ先にできた友達。草壁家の門から居間まで通るほどの大声で「さーつきちゃーん!!」と叫んでいた。学校ではサツキと席がとなり同士で、思いがけないメイと言う来客を楽しんでいた様子。また、男子と口論する、木登りするなどエンディングではなかなか活動的な一面もみられる。
余談
監督の宮崎氏は、『もののけ姫』のラストに登場したコダマが後のトトロであると話している(参照)。
都市伝説
ネット上では本編に関する様々な憶測や考察がされている。多くは後に公式から否定されており、例えば「サツキとメイは山中を彷徨い死亡している。根拠として、終盤では2人の影が描かれていない」という「死亡説」が有名であるが、これについては「影が描かれていないのは(夜の暗い場面のため)作画上不要であると判断したから」と公式発表があった。
火垂るの墓
昭和63年(1988年)4月16日に劇場公開されたが、その時の同時上映が『火垂るの墓』であり、トトロを見て良い気分になった観客が続けて「火垂るの墓」を見たばっかりに、その救いようのない結末に憂鬱になってしまった観客が少なからずいたようだ。
ただし当時は放映が終わってもそのまま席に残って次の回を観ることができた劇場が多かった(完全入替制が主流になったのは1990年代。それまでは映画が始まって何十分たっても入場できた。見逃したところは次の回で見ればよかった)ため、事情を知っている観客は、途中から劇場に入って「火垂るの墓」⇒「となりのトトロ」の順番で観ていた。多くの劇場では「となりのトトロ」⇒「火垂るの墓」の順番で上映されたが、一部の劇場では逆の上映順のところもあったそうである。
番外編など
東京都三鷹市にあるジブリ美術館内の映画館「土星座」では、番外編にあたる「メイとこねこバス」が上映されている。演目は月に一度変更されるが、は最も人気の高い演目である。
幻の“となりのトトロ”
一人のアニメーター
前述の通り、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』は、ジブリ初の同時上映アニメーション作品である。この二作品の制作の舞台裏で、宮崎駿と高畑勲両監督による、あるアニメーターの争奪戦が行われていた。
原画マン時代から彼らの携わる作品に大きな貢献を残した近藤喜文の奪い合いである。
(※事件の詳しい顛末は近藤喜文の記事にて。)
結果的に、近藤は『となりのトトロ』への参加はしなかったものの、近藤が携わってたならば、全く異なる『となりのトトロ』になっていたと言われている。
宮崎駿によれば、
「普通、四才ぐらいの子どもであれば、歩くときや走るときに前のめりか後ろのめりに動く。僕がこのアニメーションを描こうとすると、どうしても子どもが地面に対して垂直に動いてしまう、いわゆる漫画的な表現になってしまうが、近藤喜文にならそれができる」
ということだそうである。
鈴木敏夫は、近藤喜文は日本のアニメ界が生んだ最高のアニメーターであり、彼のアニメーターとしての実力はもしかすると宮崎駿を上回っていたのではないかと彼を称している。
しかし、生まれつき体の弱かった近藤喜文は無理がたたった為か、もののけ姫公開後、47歳の若さで亡くなった。
宮崎駿自身、近藤のアニメーターとしての実力に関しては、文句のつけどころのないやつだったと後年語っている。
初期設定の少女
映画ポスターは「雨が降る夜のバス停で傘を持った少女のとなりにトトロがいる」という構図だが、この少女は一人だけで、それがサツキともメイとも見える混ざったような人物である。初期設定では主人公は一人だけで、キャラ設定もサツキとメイの性格が混在したものだった。
その後、同時上映の『火垂るの墓』の尺が90分となり、トトロもそれに合わせて60分のところを80分に延ばすことになったが、プロデューサー鈴木敏夫が語るところによれば「主人公を姉妹にしたら20分延ばせるだろう」と宮崎が言い出したためキャラを分けることになったという。
ただし、この上映時間の延長やそれに伴う主人公変更については、もともと60分の中編映画として企画された段階で既に「小学3年生の姉・サツキと5歳の妹・メイ」という2人の主人公が存在していることや、宮崎が「絵コンテを描いた段階で60分で収まらないことがわかり、(同じく中編として企画された)『火垂るの墓』も同様の状況であることを聞いたので延ばすことにした」と自著で語っていることから、実際の経緯はもう少し複雑なものであったと推測される。
ポスターは初期に製作されたイメージボードが流用されたため、この幻の主人公の姿が残ることになった。
関連イラスト
関連タグ
ここに七国山病院を建てよう - トトロの”カオス”なパロディイラストに添えられているタグ