概要
マケドニア王朝の皇帝ロマノス2世の長男として産まれる。母は、「絶世の美女」かつ「東ローマ帝国史上最大の悪女」と言われた皇妃テオファノである。
父帝ロマノス2世が早逝、ニケフォロス2世及びヨハネス1世の共同皇帝に即位
父・ロマノス2世は狩猟中に事故に逢い、24歳の若さで急死した(死因は山奥での落馬である一方、一説にはテオファノによる陰謀によって暗殺されたともいわれている)。以後、母・テオファノが軍事貴族出身の皇帝ニケフォロス2世フォカス]](イスラム勢力と戦い、アンティオキア、アレッポ、タルソスといったかつての東ローマ帝国の都市を奪回した「軍人皇帝」)の所へ再婚で赴く事になり、バシレイオスは963年に5歳でニケフォロス2世の共同皇帝に即位する。無論幼少の為、実権の無い単なる飾りとしての共同皇帝である。
軍人ニケフォロス2世フォカス帝の謀殺
更に後、テオファノは「無骨な軍人」としてしか見れないニケフォロス2世フォカスに嫌気が差し、969年12月10日にニケフォロス2世の甥であり、帝国軍の最高司令官であるヨハネス(後のヨハネス1世ツィミスケス)と共謀してニケフォロス2世を就寝時に襲って殺害、ヨハネスは帝位を奪い、「ヨハネス1世ツィミスケス」として皇帝に即位、その時もバシレイオスは引き続き、単なる「飾り物」の共同皇帝としての幼少年期を過ごす事になる。
皇后テオファノ、コンスタンティノープルから追放される
因みに母テオファノはヨハネス1世の妻になるはずであったが、そのヨハネス1世によって「用済み」として見做され、首都コンスタンティノープルから追放されている。しかし反面バシレイオスは実権を持っていなかった為か、引き続きロマノス1世の共同皇帝としての地位にあった。
少年皇帝バシレイオス
976年、ヨハネス1世の死によって成人(当時18歳。現在だとまだ未成年に当たる)していたバシレイオスは晴れて正帝となったが、実権は大叔父の宦官バシレイオス・ノソスが握ったままであった。しかも当時、ニケフォロス2世、ヨハネス1世と有力な将軍が次々と帝位に就いた事で「血統による帝位継承」の必然性が薄れていた為……、
- 976年、即位直後にバルダス・スクレロスが反乱を起こす(979年にカルシアノン・テマでスクレロスの軍勢を撃破して鎮圧するが、スクレロス自身はアッバース朝イスラム帝国の首都バグダッドへ亡命する)。
- 985年、第1次ブルガリア帝国への遠征に失敗する(ブルガリアの要衝都市の一つであるサルディキ(現在のブルガリア共和国の首都ソフィアの旧名)の占領に失敗して、却ってブルガリアから反撃されて撤退、ブルガリアは勢力を拡大して、黒海からアドリア海に至るまでの領土を支配した)。
- 987年、バルダス・スクレロスが再度反乱を起こす(名門貴族の一人であるバルダス・フォカス(東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスの甥)を鎮圧に向かわせたが、フォカス自身も『皇帝』を自称してバシレイオスに反旗を翻す)。
- 988年、スクレロスとフォカスが結託して反乱軍を形成して、アナトリア半島(現・トルコ共和国)の貴族までこれに加わり反乱が拡大。更にはアナトリア半島が占領され、反乱軍は帝都コンスタンティノープルに迫る。
……と、相次ぐ有力な軍事貴族による、「帝位獲得」を目的とした反乱や第一次ブルガリア帝国との戦争等に悩まされバシレイオスは一時絶体絶命の危機に陥った。軍事貴族の反乱はその後、キエフ大公ウラディーミル1世が派遣した援軍を得て平定へと進み始め、翌989年にはアヴィドスの会戦にて弟のコンスタンティノス8世がフォカスを討ち取る事に成功。更には同年、引き続き抵抗していたスクレロスとは和解して反乱軍を鎮圧する事に成功する(因みにスクレロスはその後、バシレイオスから土地を与えられて隠棲した)。
正帝となって13年、バシレイオスはこれらの混乱を越え、漸く真の「正帝」として君臨したのである。
ブルガリア帝国との戦い
第一次ブルガリア帝国に対しては990年頃から幾度もの戦いを展開し始め、グルジア・アルメニア・シリア・西部グルジアを服従、併合して版図に入れる。
更には1001年から1005年にまでブルガリアの旧都プリスカとプレスラフ、マケドニア・テッサリア地方、アドリア海沿岸のデュラキオン(現アルバニア共和国ドゥルラス)を占領制圧して、次第にブルガリアを圧倒。
『クレディオン峠の戦い』で大勝
そして1014年に、その東ローマ帝国と第1次ブルガリア帝国との戦いの「ハイライト」とも言うべきクレディオン峠(『キンバロングーの戦い』とも言われている。クレディオン峠は現在のブルガリアのクルジュチ峠に当たる)の戦いで、バシレイオスとサムイル、共に総大将が「皇帝」という総力戦で、見事東ローマ帝国が大勝した。
しかし、この戦いの「凄まじさ」というのはその事後処理からである。
バシレイオスはブルガリア人捕虜1万4000のうち、捕虜の集団を100人に1組のグループに分けたのだが、そのグループの内容というのが、1人だけ片目を、残りの99人は両目を潰し、ブルガリア王サムイルの元へ送り返したのである。一人の目が見える男を先頭に、99人の盲人が付き従って帰還するという光景を見たサムイルは驚いて卒倒、その2日後に死去したという。
ブルガリア帝国を滅亡させた「ブルガリア人殺し」。
1018年には第一次ブルガリア帝国を完全に滅ぼして、東ローマ帝国によるバルカン半島全域の支配を約400年振りに回復した。これによってバシレイオス2世には「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」という渾名が付けられた。しかしバシレイオスは征服した後はまるで別人の様に寛容な政策を取り、帝国の他地域と違って税金を物納にする事も許している。
東ローマ帝国の最盛期を齎す
また、イスラム勢力や南イタリアのランゴバルト人との戦いにも勝利。北はドナウ川、南はクレタ島、東はシリア・アルメニア、西は南イタリア(マグナ・グラエキア)に及ぶ大帝国を建設。東ローマ帝国に中世の黄金時代を齎した。11世紀中頃の知識人・政治家であるミカエル・プセルロスは……
「バシレイオスは他の皇帝の様に春の半ばに出陣して、夏の終わり頃に引き上げるといった事はしなかった。彼が完全に帰還する時と言うのは、作戦が成功した時であり、彼は平然と夏の暑さ、冬の寒さに耐えた。あらゆる欲望を厳しく押さえた鋼のような男であった。」
(井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』 p.179の『年代記』の引用より)
軍神バシレイオス
ブルガリアと交戦中である994年に、東ローマ帝国の属国となっていた、アレッポのイスラム教国家ハムダーン朝が、ファーティマ朝の圧力を受けて東ローマ帝国に救援を要請してきた。バシレイオスは当初アンティオキア軍管区の長官に兵を送って救援を命じ、自らはブルガリア征服を続行したが、アンティオキアに派遣した軍がファーティマ朝に敗北。すると彼はブルガリアとの戦いを中断して帝国を西から東へ26日で横断、ブルガリア遠征軍17,000の兵を伴ってアンティオキアに入ったのである。この報に接するとファーティマ朝の軍はアレッポから撤退した。
覇者の政治
1025年、バシレイオス2世没時の東ローマ帝国の内政では、皇帝による専制政治を推し進めた。プセルロスは「バシレイオスは書かれた法に従う事も無く、何もかも一人で決めた」と記している。ここに、古代のディオクレティアヌス帝から始まったローマ帝国の皇帝専制体制はその頂点を迎えたのである。
バシレイオスの治世
- バシレイオスは自らを苦しめた軍事貴族や大土地所有者を抑圧し、彼等が農民から不正に取得した土地の没収等を行う一方で中小農民の土地保護などに努めた。
- 皇帝自ら不正に大規模な土地を取得した者の屋敷へ乗り込み、屋敷を壊して土地を没収するという事まで行ったのである。
- 922年以降(ロマノス1世が大土地所有を制限する勅令を出した年)に有力者が貧者から入手した土地は時効も賠償請求も無く返還させる法律を制定し(それまでは40年の時効があった)、さらにはその数年後には貧富の差の拡大で税金が払えなくなった農民が増えたため、貧しい農民が滞納した税金を近隣の貴族に支払わせるという連帯責任制度「アレレギュオン制度」を創設した(それまでは近隣の農民が連帯責任を負っていた)。
- 一方、新たな占領地に対しては、その地方の習慣と状況を考慮した行政が行われた。例えば、経済の進んでいた地方に課していた金納の税に変えて、物納を認可したのである。また上記のブルガリア占領の際、ブルガリアの首都オフリダの総主教を府主教に降格させたが、コンスタンティノープル総主教から独立した自治権を認められた。新占領地はテマ(軍管区)に組織して統治されたという。
清貧皇帝
またバシレイオスは贅沢を慎み、財政支出を抑制したので宮殿の倉庫は金銀が唸る位の財宝で埋め尽くされ、バシレイオスの命令で倉庫を拡張されたほどであったという。この様に度重なる外征を行いながらも国家財政の健全化を成し遂げたが一方ではその緊縮財政により、経済発展は抑えられる結果ともなった。
ロシアの『キリスト教国』化に成功。
反乱平定の援軍派遣の見返りとしてキエフ大公ウラディーミル1世と妹アンナを縁組させた事によってロシア・ウクライナがキリスト教化し正教会の勢力を北方へ拡大させる事にも成功させている。(因みにそれまでロシアは樹木信仰が盛んであった)
崩御
1025年12月25日、バシレイオスはイスラム海賊の拠点となっているシチリアを征服し、南イタリアの支配を安定させようと、先遣隊をイタリアへ派遣、遠征の準備中に倒れ、まもなく逝去した。
その後
バシレイオスは結婚しなかった為に子はおらず、実弟のコンスタンティノス8世が帝位を継いだものの彼は長く共同皇帝にいながらも実権は全て兄・バシレイオスに終始握られ持っていなかった為、此処から東ローマ帝国の絶頂期は終わりを告げ、徐々に衰退が始まる事となる。