概要
差分はいくつもあるが、だいだいこんな感じの文章をテンプレとして、創作物が商業化されたり一般公開される際に付されるある種の防御線。
昨今、創作物の大半は「現実を脚色する」といった手法も多く、ユーザーの中にはどんなに荒唐無稽な描写であってもそれをマジネタと誤解するケースが後を絶たない。
(※これの極端なケースが悪名高い民明書房)
また、作品によっては不謹慎に片足を突っ込んでいるネタで攻めまくっているものもあり、当然、そのまま世に出したら風評被害や炎上案件まっしぐらとなりかねない。
「この作品はフィクションです」とは、そのようなことにならないよう考案された「こんな作り話しにマジにならないでください」という趣旨の注意書き、その決まり文句である。
歴史
三島由紀夫が昭和34年の東京都知事選を背景に実在の政治家と料亭の女将との愛憎を描いた『宴のあと』を発表した際にその政治家本人からプライバシーの侵害を理由に訴えられたことが、この文言が作られたきっかけ。(『宴のあと』裁判)
三島は表現の自由を根拠に徹底的に応戦。泥沼の末、最終的に老境であった政治家本人が裁判中に他界したことで一応の収束を得た。
裁判自体は三島側が敗訴しており、この時の裁判長は「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」と述べている。
三島はこれを不服とし、「この判決の底には明治政府以来の芸術に対する社会的有効性による評価、芸術(文学)の自律性の蔑視、芸術の全体性の軽視その他の、近視眼的見解が横溢していゐる。」と持論を展開した。
こうした影響を受けて、『宴のあと』の掲載元である中央公論はその連載最終回にて「実在の人物とまぎらわしい面があり、ご迷惑をかけたむきもあるようですが、作品中の登場人物の行動、性格などは、すべてフィクションで、実在の人物とは何ら関係ありません」という但し書きを掲載。以降、各業界がこれに追随するようになった。
※注意
ただし、このテンプレを貼ったからといってどんな描写でも許されるわけではない。
特に社会問題や時事ネタ関連で名誉棄損やデマなどの不謹慎に突っ走った結果、「作者の血は何色だ!?」とユーザーやマスコミ等から十字砲火をくらうことは普通にあり、その際にはこの言葉の神通力は無に帰す。
事実、『宴のあと』以降もこの手の問題は定期的に発生しており、どこまで表現の自由は許容され、なにをもって芸術無罪となるのか…といった非常に曖昧な箇所を残したまま今日に至っている。
結局、すべてはクリエーターやユーザーの良識やバランス感覚にかかっているといっても過言ではない。
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