父は夏侯尚(夏侯淵の甥)、母は徳陽郷主(曹真の妹)。曹真の長男である曹爽は従兄弟にあたる。同母妹に夏侯徽がいる。夏侯氏と曹氏の絆の深さを象徴とする血筋である。
曹叡・曹芳と魏に仕え、曹爽の側近・何晏や重臣司馬懿の長男・司馬師と並び称された優秀な人材であった。(だいたいナルシストの何晏が自分も含めて褒め讃えているのだが)
3人とも互いの実力を認め、交友していた。・・が、3人の切磋琢磨しあう関係は、魏末期の権力闘争により仇敵関係へと変わっていく。
免職から復職・出世
226年、夏侯尚の跡を継く。夏侯玄は夏侯尚以上の才があり非常に人望ある人物であった。しかし、曹叡には軽薄と見なされ(「画餅」の由来)嫌われ、左遷されたり免職させられたりして不遇であった。曹芳が皇帝になると曹爽が実権を握り、夏侯玄は曹爽の従兄弟だった事もあり、出世した。その恩もあるせいか、曹爽の悪政を咎めることが出来なかったようである。仮節・征西将軍・都督雍涼二州諸軍事に在った244年、曹爽と共に蜀漢へ侵攻したが王平や費褘に阻まれた(興勢の役)。
司馬氏の台頭と正始政変
夏侯玄の妹・夏侯徽は、司馬師に嫁ぎ、夫婦仲は初期の頃は良好だったものの、夫が曹魏に不忠だと気づいてからは不仲となり、ついには司馬師によって毒殺される。
興勢の役から5年後の249年、司馬師は父司馬懿と画策し、曹爽が不在の隙を突いてクーデターを決行した。曹爽は三族皆殺しにされ、曹爽の側近の何晏たちも処刑されてしまう(正始政変)。これにより、曹氏の衰退と司馬氏の台頭が急進していく。
夏侯玄も中央に召還され、大鴻臚のち太常となった。身内やかつて交友していた何晏たちを失った夏侯玄は、曹爽との関係性から不遇となり、自身も人事に関らず、美女を側室に置かないようにした。
結末
正始政変後、従父の夏侯覇が蜀に亡命した際に同行を求められたものの、これは拒絶し魏に留まった。
司馬師に信頼されていた李豊は、夏侯玄の事を内心では心酔しており司馬師を倒し、夏侯玄を大将軍にして実権を握らせようとクーデターを画策した。しかし、実行前に計画が露呈してしまう。司馬師と対面した李豊は散々に司馬師を罵ったため、怒った司馬師によって殺され、夏侯玄も捕らえられてしまう。
夏侯玄の取調べにあたった鍾毓(鍾会の兄)は、供述書を書き、涙ながらにそれを夏侯玄に見せた。夏侯玄は黙って頷き、堂々とした様子で刑場に臨み、処刑された。
後に夏侯玄の友人だった毌丘倹・諸葛誕は、反乱を起こすことになる。
司馬師の実弟・司馬昭は夏侯玄の助命を兄に求めたが、趙儼の葬儀での夏侯玄の人望の高さを挙げ、叱り付けたという。いかに司馬師が夏侯玄を恐れ、そして高く評価していたかを窺わせるエピソードである。
夏侯玄の死の翌年の255年、司馬師は、毌丘倹の反乱の最中、眼の病が悪化し、死去する。
演義では、夏侯玄が夢に出てきて眼の病で苦しむ司馬師を更に苦しめるという展開である。