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武衛の編集履歴

2022-10-25 18:39:37 バージョン

武衛

ぶえい

武衛とは、日本の官司を示す名称の一つ。

概要

1.律令制で定められた官司の一つ・兵衛府(ひょうえふ)の唐名。以下の2つの用例の由来でもある。

2.尾張守護・斯波氏の通称。

3.大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の登場人物、並びにファンを指しての通称の一つ。


1.の武衛

兵衛府とは、天皇やその家族の近侍・護衛を担当する役職の一つで、その成立は飛鳥末期天武天皇の治世にまで遡れる。その後時代が下るに連れて左右への分立、名称の変更や規模の縮小などを経て、後に成立した近衛府・衛門府と併せ「六衛府」と呼ばれるようにもなった。


兵衛府のうち、その長官に当たる左右の「兵衛督(ひょうえのかみ、武衛大将軍とも)」は、特に室町期以降は武士にとって名誉ある官職とされ、主に鎌倉公方や斯波氏の当主といった足利氏の血筋に連なる者が任官するケースが多く見られた。江戸期においては明石藩主松平家の当主が左兵衛督、尾張藩徳川家当主が右兵衛督に任官されるのが通例となったが、喜連川藩主を務めていた喜連川家は、その先祖が小弓公方(古河公方の分家の一つ)であったことから、無位無官ながら左兵衛督の名乗りが例外的に許されていた。

また、次官に相当する左右の「兵衛佐(ひょうえのすけ、武衛将軍)」は、平安期より公卿への昇進ルート上の官として見做されており、上流貴族の子弟が多く任じられていたが、平安後期に入ると平清盛が公卿として最初に左兵衛佐に任じられており、この当時の武士としては破格の待遇ぶりは世間を大いに驚かせることとなった。しかし清盛以上に、この官職に就いた人物として広く知られているのは源頼朝である。実際に頼朝が右兵衛権佐の職にあったのは、平治の乱の最中のわずか半月でしかないが、後に鎌倉に武家政権を打ち立てた頼朝に対し、坂東の武者たちは頼朝への敬称として「佐殿」「武衛」と呼び慣わした。


2.の武衛

足利氏の庶流にして、室町幕府三管領家の一つでもあった斯波氏は、室町初期以降その嫡流が「武衛(武衛家)」と称されるようになった。これは前述の通り、斯波氏の歴代当主が兵衛府の督もしくは佐に任ぜられたことに由来するものである。室町幕府成立当初、兵衛督への任官は将軍やその近親者に限られていたが、3代将軍・足利義満の治世下で斯波義将が左兵衛督に任ぜられて以降は、斯波氏の当主からも複数この職に就いた者が散見されるようになった。


現代でこそ斯波氏と呼び慣わされることが一般的であるが、室町期にはもっぱら武衛(家)と呼ばれており、京都の上京勘解由小路に現存する武衛陣町の地名は、この地に武衛家が邸宅(武衛陣)を構えていたことに由来するものである。


3.の武衛

2022年放送のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』における、源頼朝に対する通称・・・なのかもしれない。

なぜこのような歯切れの悪い表現になるのかと言えば、作中でのこの語句の出てきた経緯、それに使われ方が些か特殊であるためである。以下にこの語句の初出である第8回「いざ、鎌倉」での経緯を掻い摘んで記すものとする。


石橋山で手痛い敗北を喫しながらも、奇跡的とも言うべき再起を果たした頼朝は、坂東の諸勢力をその傘下に加えながら鎌倉へと軍を進めつつあった。

が、その軍勢の間では「佐殿(頼朝)が最近調子に乗っている」と、隙間風が吹きつつある状態であり、上総介広常に至っては頼朝の再起に大きく影響を及ぼしたにも拘らず、その待遇や頼朝の姿勢に不満を隠そうともしない有様であった。

この状況を見かねた北条義時は、三浦義村と相談の上で頼朝と坂東武者らとの酒宴の場を設け、両者の間に横たわるわだかまりを解こうとするのだが・・・ここで義村は広常に対し、「相手に親しさを示す」言葉であるとの説明を添えつつ、頼朝のことを「武衛」と呼ぶと良いと提案する。


「義村殿、武衛とは・・・」

「流石に知っていたか。まぁ見ていろ」


そばでこのやり取りを聞いていた畠山重忠がすぐに勘付いた通り、「武衛=相手に親しさを示す呼び名」という義村の説明は全くの出任せである。頼朝を「佐殿」と呼ぶことすら渋っていた広常にしてみれば、むしろそれよりも畏まった呼び名となる訳なのだが、そのことを知る由もない広常は頼朝が酒宴の場に出てきたことにすっかり機嫌を直したらしく、義村に教えられた通り頼朝を武衛と呼び、対する頼朝も広常からの予想外に畏まった呼びかけに気を良くしていた。そう、ここまでは良かったのだが・・・


「おぅ、お前も武衛! 俺も武衛だ! 武衛同士飲もう!」


義村からの説明を鵜呑みにしてか、広常は頼朝だけでなく周囲の面々にまでも(恐らくは仲間や同士程度の感覚で)「武衛」と呼びかけており、これには頼朝も軽い当惑を禁じ得なかったのであった。

その後も広常は頼朝のことを「武衛」と、その最期の時まで親しみを込めて呼び続けていた訳だが、その真に意味するところを理解していたのかどうかは、今となっては誰一人知る由もない。


ともあれ、前述した広常の「勘違い」ぶりにおかしみ、ユーモアを覚えたファンも相当数いたようで、そこから転じて「クラスタ」などと同様の感覚で、自称他称を問わず同作のファンを「武衛」と呼ぶケースも散見されるようになった。

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