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後堀河天皇の編集履歴

2022-12-19 12:10:51 バージョン

後堀河天皇

ごほりかわてんのう

後堀河天皇とは、日本の第86代天皇。

生没:建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日)

在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日)

諱 :茂仁(とよひと)


生涯

第80代天皇・高倉天皇の第2皇子である守貞(行助入道)親王の第3皇子。

父の守貞親王は、治承・寿永の乱における混乱に巻き込まれる形で皇位継承の機会を逸し、茂仁王の生まれた建暦2年に出家の身となっており、上の兄たちもまた同様に僧籍に入っていた。

しかし茂仁王は十楽院に入室こそしていたものの、父や兄たちと同じ道を歩む事はなかった。そのきっかけとなったのは茂仁王が10才の折、承久3年(1221年)に発生した承久の乱である。乱の失敗により後鳥羽上皇らを始めとする朝廷側の首謀者が軒並み配流とされ、その直系の子孫らもまた皇位継承者から除外される中で、退位を余儀なくされた仲恭天皇の後釜として、白羽の矢が立てられたのが他ならぬ茂仁王であった。

茂仁王が皇位継承者として有力視されたのは、単に後鳥羽系以外の皇族であったというだけでなく、母の持明院棟子(北白河院)の両親がいずれも源氏将軍家と縁のある人物(※)であった事も大いに影響していると見られている。ともあれ茂仁王は仲恭帝が廃位されたその日のうちに、立太子礼を経ずに践祚、12月1日に晴れて第86代天皇として即位。これに伴い父の行助入道親王も太上天皇号を奉じられ、親王による院政が敷かれることになった。


翌々年の貞応2年(1223年)、行助入道親王の薨去により後堀河帝による親政が行われる事となる。在位中の嘉禄元年(1225年)、四天王寺別当の慈円の病没により、延暦寺園城寺との間で後継問題が持ち上がると、後堀河帝はその両者の要求を退ける形で、自らの長兄に当たる尊性法親王を四天王寺別当に補任するという人事に踏み切った。

ところがそれから4年後の寛喜元年(1229年)、六波羅探題と延暦寺の間で武力衝突が生じると、この時天台座主でもあった尊性法親王は僧兵を抑える事が出来ず辞任、これを受けて後堀河帝がかつての師であった仁慶をその後任に据えようとするも、延暦寺からの反発にあって頓挫し、仁慶が失意のうちに急逝するという事態となった。前述の武力衝突が一応の解決を見た後も、今度は四天王寺の反尊性派の僧侶による失脚運動が発生し、鎌倉幕府の意向により一時四天王別当を退く結果ともなっている(後に天福元年(1233年)に再任)。

その間の寛喜3年(1231年)、中宮である九条竴子(藻璧門院、九条道家の息女)との間に秀仁親王を設け、翌貞永元年(1232年)にはわずか2歳の親王に譲位し院政を敷くこととなる。しかし元来病弱の身であった上、程なくして竴子が死産の末に薨去した事による傷心も重なってか、後堀河院もその後を追うように天福2年(1234年)に崩御。宝算23。その崩御の前後には摂政の九条教実(竴子の弟)や、先帝である仲恭帝も相次いで没しており、これらは前出の仁慶や後鳥羽院の祟りによるものと噂された。


(※ 棟子の父である持明院基家は一条能保源頼朝の妹婿)の叔父に当たり、また母は平頼盛の息女、即ち頼朝を助命した池禅尼の孫でもあった)


関連タグ

天皇 朝廷 皇族 鎌倉時代


鎌倉殿の13人:本人は未登場だが、最終話にて北条義時が最期の標的として暗殺を目論んでおり、周囲の反対や義時の死によって幸いにも未遂に終わった


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仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
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