山崎武司とはプロ野球中日ドラゴンズの選手(内野手、外野手、捕手)である。
「やまさき」であり「やまざき」では無い。なお、1999年シーズンから登録名を戸籍上の表記である「山崎」から「山﨑」に変えている。
概要
愛知県出身。愛工大名電高校から、1986年のドラフトで中日に入団。捕手から一塁にコンバートされた後1996年に38本塁打で本塁打王のタイトルを取るなど、主砲として活躍するが、本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームになったことで、97年は前年の半分の19本になるなど本塁打数が激減。その後もそこそこ活躍していたがフロントや首脳陣との対立の結果2003年には平井正史とのトレードによりオリックス・ブルーウェーブに移籍するものの、活躍の機会はなくここでも首脳陣と対立。2004年の球団合併を機に自由契約となり引退も考えるが、高校の先輩である工藤公康に諭され、この年に誕生した楽天に入団する。
楽天初年度の時点で既に36歳と、もはや全盛期の力を望めるはずもなく、創設時の楽天に入団した多くのベテラン選手同様引退も近いかと思われたが、実際はここからが全盛期とばかりに活躍する。事実上の楽天の初代4番としてチームを牽引、球団初年度の2005年は25本塁打と復活。2007年には本塁打43本、108打点で2冠王となり実に11年ぶりとなるタイトル獲得となった。その後も衰えを見せずに2009年には39本塁打を放つなど、42歳にして楽天の主砲として活躍した。
2011年は中日入団時の監督であった星野仙一が楽天監督となる。星野は「送ることになろうとは」と冗談で言っていたが、翌年オフに楽天を自由契約となり、2012年からは古巣の中日に所属。2013年にはセ・リーグ最年長三塁打、最年長サヨナラ安打を記録したが、7月27日に一軍登録を抹消されたのをきっかけに現役引退を決意。10月5日のナゴヤドームでのシーズン最終戦が引退試合となった。その後、2014年3月21日の楽天とのオープン戦が「山﨑武司引退試合」として行われ、この日限定で現役復帰。最後の打席は則本昂大からの二ゴロ併殺打であった。
その後は野球評論家やカーレーサーとしても活動する。
血の気の多い性格であり、96年に巨人・バルビーノ・ガルベスと大乱闘、楽天時代審判に「ヘタクソ!」と発言して退場になる、先述の首脳陣との対立といった悪いエピソードにも事欠かないものの、若手時代に火災に遭った家から子供を救出する、1999年優勝争いのさなかのサヨナラ3ランの後の大ガッツポーズ(Xムラン)なども有名。
また、山本昌とはラジコンカー仲間であり、CSで番組を持っている。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム |
---|---|---|
22 | 1987年〜2002年 | 中日ドラゴンズ |
5 | 2003年〜2004年 | オリックス・ブルーウェーブ |
7 | 2005年〜2011年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス |
7 | 2012年〜2013年 | 中日ドラゴンズ |
20 | 2014年 | 中日ドラゴンズ |
2014年はオープン戦での引退試合のみの登録。背番号「20」は登録上のものであり、実際には球団及び当時の「22」使用者大野雄大の許可を得て、長らく着用していた「22」を使用した。