大久保博元
おおくぼひろもと
経歴
茨城県立水戸商業高校では甲子園に出場出来なかったが通算52本塁打を放つ強打の捕手として評価され、1984年のドラフト1位で西武ライオンズに入団。
ちなみにこの年の西武はたった3人だけの指名であり、2位は田辺徳雄(2014年途中~2016年まで西武監督)で3位は高山郁夫である。
プロ入り直後にアメリカで野球留学しており、引率していた2軍監督の和田博実から「デーブ大久保」と名付けられ、これがそのまま愛称及び芸名となった。
しかし、当時は既に伊東勤が磐石であったため、守備難もあり代打での出場が主だった。
1992年のシーズン途中に中尾孝義とのトレードで読売ジャイアンツに移籍した。
移籍してすぐに正捕手の座を掴み、オールスターまでのわずか2ヶ月で12本塁打と打ちまくり、デーブ効果と呼ばれたが、勝負所での弱さが露呈し再び村田真一に奪い返される。
1993年以降も村田との併用が続き、さらに故障も重なったことで、1995年に28歳の若さで現役を引退した。
引退後はタレント「デーブ大久保」として活動しており俳優としてもウルトラマンゼアスにも出演した。
2008年には現役時代に親しかった渡辺久信監督の要望により一軍打撃コーチに就任。登録名は本名だったが、背ネームは「D.OHKUBO」だった。
打撃コーチとしてアーリーワークを取り入れ、同年のリーグ優勝および日本一に貢献したが、知人女性への暴行が問題視されコーチを解任された。
2010年に二軍打撃コーチとして復帰したが、新人の菊池雄星との確執により再び解任された。
2012年からは星野仙一監督に請われ一軍打撃コーチ・二軍監督を務める。
2014年には星野が健康の悪化によって休養した際には代行として指揮を執り、シーズン終了後は星野から監督の座を引き継いだ。
監督として臨んだ2015年は松井裕樹をクローザーに抜擢するが、チームは失速。2年連続最下位の責任を取り、わずか1年で辞任した。
2016年からはタレント業や野球解説業の傍ら、居酒屋「肉蔵デーブ」を経営している。その後、2022年のオフに読売ジャイアンツ監督である原辰徳の招聘で2023年シーズンより一軍打撃チーフコーチに就任することとなった。