北杜夫(きたもりお)は日本の小説家。戦後を代表する小説家の一人で、エッセー『どくとるマンボウ航海記』で一斉を風靡するようになる。他の代表作に『楡家の人びと』など。
本名は斎藤宗吉(さいとうそうきち)で、詩人として名高い医者、斎藤茂吉の二男。だが、親の七光りと思われることを嫌い、素性はずっと隠していた。北杜夫のペンネームは文芸に目覚めたときに当時、北の大都市(その頃、札幌はまだまだ田舎)といわれた杜の都仙台にいたことと、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』(トニオ・クレーガーの独語読み)のトニオをもじり、北杜夫とした。それから、色々ペンネームを変えて小説を投稿していた際に北杜夫で売れたので、出版社からその名前のままにしてくれと要請されたため北杜夫で落ち着いた。
概要
東京、南青山の生まれ。斎藤家は医者一家であり、彼も幼少時は天才児として知られた一方で文学には全く興味を抱かなかった。文学に興味を持ち始めたのは中学からだが、当時はむしろ昆虫博士になることを夢見ていた。結局、父親の意思で医師以外の道を進むことを許されず、東北大学の医学部に進学し、戦後しばらく仙台で暮らす。後に慶應大学病院のインターン生を経て精神科医となり、甲府にも1年勤務。また、この頃からトーマス・マン(『トニー・クレーガー』に影響。他に魔の山が有名)に影響され本格的に文学に興味を持ったが、投稿しても全くの鳴かず飛ばずであり、売れない三流作家として親と一緒に暮らす居候の日々が続いた。
水産庁保有、照洋丸の船医に抜擢されると人生に転機が訪れる。航海を経て帰国後に十二指腸潰瘍を患ってしまい、その際に半ば気分紛らわせで面白おかしく記録を書き綴った『どくとるマンボウ航海記』が1958年に出版されると記録的なヒットを遂げ、一躍時の人となる。その印税は当時として増刷するたびに100万円(今なら2000万ぐらい)に上り、その印税だけで都内の一軒家を買ったほどであった。結婚もして生活に余裕が出ると小説家としてコツも掴み、脂も乗り始めて1960年には『夜と霧の隅に』で芥川賞も受賞。1963年には代表作、『楡家の人びと』を発表すると三島由紀夫に絶賛され、小説家として一躍、その地位を築いた。
しかし、後に自分自身が躁鬱病を発症。70年代には突然喜劇映画を作りたいと言って、無謀な株価投資が祟り1億ほどの巨額の借金を抱えてしまった。その後、女性週刊誌の仕事も受けたりして、借金はなんとか完済。
それでも日本文学界での貢献者として評価もされ、1996年には日本芸術院会員となる。2004年からは『私の履歴書』という自伝の上梓を始めた。だが、2012年にインフルエンザ予防接種がきっかけで体調が悪化、気道閉塞で死去してしまうという、医学に若き人生を翻弄され、医学で財を成し、最後には医学に命を奪われるという、なんとも数奇な生涯となった。
作風
大江健三郎、開高健らと並ぶ戦後を代表する小説家として名高く、近現代日本文学史の書籍にもその名を出すことが多い。また、かなり作風が幅広く、濃密な純文学から読み心地の軽いエッセー、更には児童文学までなんでも書きこなした。多芸、多趣味であり、生業の医学的知識はもちろんのこと、ドイツ語も堪能でドイツ文化も知識も豊富。登山(アルピニストとしてヒマラヤ登山経験もあり)、乗馬も盛んに作品に登場する。また、幼少時から熱烈な昆虫マニアであり、昆虫に対する知識は同氏の小説のあちこちで垣間見ることができる。大の漫画好きでもあり、小学館漫画賞の審査員もしていたほか、大の阪神タイガースファンとしても知られていた。
代表作
実体験に基づいた小説が多い。
- どくとるマンボウシリーズ(エッセー風の自叙伝。特に『どくとるマンボウ航海記』、『どくとるマンボウ青春記』は大ベストセラーとなった)
- 楡家の人びと 医者一家のホームドラマ的長編文学作品で、戦前戦後に栄枯盛衰を辿った斎藤一家がモデル。三島由紀夫が大絶賛していたことでも知られ、北の名を一躍高めた。
- 夜と霧の隅で 芥川賞受賞作品。ナチスドイツ時代に行われていた精神科医療(あのロボトミーにも触れている)を採り上げている。
- 幽霊―或る幼年と青春の物語―
- 輝ける碧き空の下で ブラジル移民のエピソード
- さびしい王様 子供向け文学を装った大人向け小説。
など