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李隆基の編集履歴

2023-04-29 17:50:28 バージョン

李隆基

りりゅうき

唐の第6代皇帝(在位712~756)。玄宗。

概要

の第6代皇帝。玄宗の名で知られる。高宗の息子。

開元の治で知られる善政を敷き、唐の全盛期を築く。しかし、晩年は楊貴妃に心を奪われ、同時に衰退を招くことになる。


人物

武則天の死後、国号が唐に戻ったが、復位した高宗の妃・韋后が牛耳るようになる。ついに、韋后が高宗を毒殺し、睿宗を擁立すると簒奪の兆しを感じた隆基は決起、韋后を殺害する。

ほどなくして、隆基は皇帝に即位。その統治前半は「開元の治」と呼ばれ、唐は安定期を迎える。

しかし、天宝に元号が変わった頃になると、その統治が揺らぎはじめる。府兵制が機能しなくなり、募兵制に変更し、それにともない辺境では節度使が力を持つようになる。さらに均田制も徐々に崩れていく。

そんな中、玄宗は楊貴妃に心を奪われる。その日を境に、玄宗は楊貴妃に夢中となり、楊貴妃の一族(楊国忠など)を重用するようになる。こうして、政治は乱れはじめ、さらに楊貴妃に気に入られていた安禄山と国忠との対立も招く。

そして755年、安禄山は楊一族の排除を大義名分に掲げ、蜂起する(安史の乱)。安禄山は洛陽を陥れ、長安に迫った。

玄宗らは為す術もなく、長安から蜀(四川)へ落ち延びた。さらに、蜀への道中、楊一族の排除を掲げた兵士の反乱が発生、楊国忠を殺害する。さらに、楊貴妃の身柄を要求する。玄宗は拒むが、高力士の説得により、楊貴妃の絞殺を決断する。

それからほどなくして、玄宗は帝位を息子の粛宗に譲り、失意のうちに亡くなった。


関連タグ

 盛唐 中国王朝

長恨歌白居易(白楽天)の詩。上記の玄宗が楊貴妃をやむなく殺した際の下りが詠われている。

タラス河畔の戦い:751年の勃発した唐とウマイヤ朝の戦い。結果は唐の敗北に終わり、以後は中央アジアへの進出に消極的となる。一方で、秘密とされていた紙の技術がこのときに捕えられた唐の捕虜を通じて、イスラーム世界に伝来することになる。

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