生涯
1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現:東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘、平塚明(ひらつかはる)として生まれる。
関ヶ原の戦いで戦死した西軍の武将平塚為広(美濃垂井1万2000石)の末裔。
1年半欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育った。
1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に入学。
しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、大学生活にひどく幻滅した。この頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭する。
1908年(明治41年)2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されるという塩原事件あるいは煤煙事件と呼ばれる事件を起こす。
新聞はある事ない事を面白く書き立て、明の顔写真まで掲載した。明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大学校に至っては桜楓会の名簿から明の名を抹消している。その後、1992年(平成4年)に復活する(『日本女子大学学園事典』)。
雷鳥の誕生
上記の事件から、明は女性の解放に興味をもつようになり、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』(せいとう)の製作に入った。明は同紙のプロデュースに回る。与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。
明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。
『青鞜』創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊され良くも悪くも大きな反響があった。
女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。
反響
『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。
翌6日には、晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」などと報じた。
翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、森鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」とまで評された。
しかし『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった。
1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)を始めている。
新婦人協会
1919年(大正8年)11月24日、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。
しかし、この国家による母性保護(妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべき)に、「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」とする与謝野晶子は否定的で「奴隷道徳」「依頼主義」だとして、大論争に発展した(母性保護論争)。
戦後
第二次世界大戦後は、日本共産党の同伴者として活動し、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。
1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。
1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。
ベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成。
1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。
自伝の作に取りかかるも、1971年(昭和46年)5月24日に85歳で逝去した。
逸話
年下の男の恋人をツバメと呼ぶのは、らいてうが伴侶である奥村に別れを告げられ、青鞜に発表した手紙の一文である「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」から流行したため。
また、らいてうが36、37歳の頃、頭痛と嘔吐で生きた心地もせず、治せる医者も薬もなく困っていたところに、石塚左玄の食養や二木謙三の玄米食について読み、そして会って話を聞き、食生活の誤りを悟り、以来30年近く菜食主義者となった。
症状と改善状況から脚気ではないかと思われる。