概要
東端とされていた河北省山海関から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8km
秦の始皇帝の時代に各国に点在していた防壁を繋げるべくして建造がはじまり、(実質)明末の時に中止するまでのおよそ2000年もの間建造や増築をしていた。
目的
建造目的は主に北方の異民族(主に“匈奴”と呼ばれたモンゴル族が対象)から帝国を守るためであった。
歴史を振り返れば解るように主要民族の漢族自身も長城がありながら多くの異民族に『征服』された。
彼ら征服者たちが長城の建設を辞めたかというとそうでも無く、今度は自身の帝国を守るためや反逆者・罪人の刑罰(労働刑)などに使った。
長城建造中止
17世紀に漢族王朝の明が滅び異民族の『女真族/満州族』が中国大陸の統治を始める。
この清という帝国は『金国君主』だけでなく漢族からみて北方の異民族の『朝鮮王国』や、最大の強敵であった『モンゴル汗国』を攻め落とし『モンゴル大君主(大汗)』の称号も手に入れてしまった・・・。
2代皇帝ホンタイジは諸民族たちに正式な王朝を宣言するために国号を『金』から『大清』に、王爵は帝爵になり、『大清皇帝』になった。
そして大清皇帝(順治帝)は北京に入城。既にモンゴルなども支配下に収めたため万里の長城の意義が消滅、よって2000年間続いた長城建設は終わった。