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武田信廉の編集履歴

2023-09-17 06:54:02 バージョン

武田信廉

たけだのぶかど

武田信廉とは、甲信地方の戦国武将。武田信玄の実弟に当たり、一門の重鎮として武田家中を支え続けた。また信玄の影武者を務めた事や、画家としての一面を持ち合わせていた事でも知られている。(1532年?-1582年)

概要

甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の六男で、正室・大井の方所生の子としては三人目の男子に当たる。同母兄に武田晴信武田信玄)や武田信繁がおり、中でも信玄とは骨相が似ていた事から、後の西上作戦での撤退時に信玄の影武者を務めたという逸話が、『甲陽軍鑑』に記されている。

所謂「武田二十四将」の一人としても数えられており、出家後に号した「逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)」の名でも知られる。


武将・統治者として以外にも、画家としての才に優れていた事が伝わっており、後述の信虎帰国時に描いたとされる「武田信虎像」(甲府大泉寺所蔵)、同じく甲府の長禅寺所蔵の「武田信虎夫人像」「渡唐天神像」などはその代表的な作品として挙げられる。


生涯

一般には天文元年(1532年)生まれとして知られるが、生年については享禄元年(1528年)とする説もある。信廉の名が史料上に現れるのは天文17年(1548年)、『高白斎記』における諏訪千野氏への知行増加を約束したという記述が最初であり、この当時は千野氏を始めとする諏訪衆の取次役を務めていたものと考えられている。

その後、永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦で次兄・信繁が戦死すると、その後を受けて親族衆筆頭となり、合戦時における本陣の防衛などに度々当たった。元亀元年(1570年)には高遠城主に任じられ、天正年間に入ってからはかつて長兄・信玄が追放した父・信虎の身柄を引き取り、高遠城に住まわせてもいる。


信玄の死後も、飯田城や大島城など信濃の重要拠点の城代を務め、また長篠の戦いにおいては山県昌景の部隊に続いて「二番」に攻撃を仕掛けた事が『信長公記』に記録されるなど、一門の重鎮として軍事・統治の両面で、信玄の跡を継いだ武田勝頼を支え続けたが、天正10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅亡した後、織田軍の残党狩りによって捕らえられ、3月24日に処刑された。享年51。


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