人物像
アウラングゼーブの私生活は禁欲主義に基づいて、宝石はほとんど身に着けず、値段の安い服を着ている質素倹約なものであった。そればかりか、自ら貴族のために作った帽子、装飾文字で書かせた自身のデリー近郊にあった小さな農場などから得られる僅かな収入だけで私生活を賄おうとした。彼はペルシア語の詩作を趣味とし、良馬を好み、果実を好物としていた。
アウラングゼーブは皇位継承戦争においては3人の兄弟を抹殺する非情な手段をとったが、帝位が盤石になると人間味を表し、とりわけ身分の低いものには寛容さを見せるようになった。もともと皇子の頃からアウラングゼーブは謙虚な人柄で、自分に厳しく他者の弱点には寛大な人物であった。ただ、その政策に不利益を被った多くのヒンドゥー教徒やシーア派からは、むしろ邪悪な怪物に仕立て上げられた。それらの風評は今日まで粗暴な人柄を伝えるが、これはアウラングゼーブの実態とかけ離れていたという。
また、アウラングゼーブは若いころに一度だけヒンドゥーの踊り子に情熱的な恋をし、音楽といった快楽を求め続けるような生活をしていたことがあった[58]。フランシス・ロビンソン曰く、その踊り子が死ぬことさえなければ、厳格な禁欲主義へは至らなかった可能性がある。
シャー・ジャハーンの治世とは違い、アウラングゼーブの治世に文化は衰退した。建築は宗教関係に限られ、宮廷にいたムガル絵画の画家集団は解散させられ、ヒンドゥスターン音楽への保護も打ち切られた。アウラングゼーブが帝国の文化事業に終止符を打ったのは、シャー・ジャハーンやダーラー・シコーがその保護者であったからと考えられている。しかし、宮廷にいたムガル絵画の画家はラージプート諸王国に仕え、ラージプート絵画の発展に寄与し、18世紀にラージプート絵画が最盛期を迎える端緒をつくった。
評価
アウラングゼーブは先述したように若年よりスンナ派に沿った生き方をし続けた人間であり、サティーシュ・チャンドラは「生きた聖者」、ウィリアム・ノリスは「宗教に全てを捧げたムガル王」とさえ呼んでいる。近藤治は、アフマド・シルヒンディーの思想がアウラングゼーブの考えた方につながり、ひいてはその統治に大きな影響を与えたと述べている。アウラングゼーブの書簡の中で最も多い話題は、神(アッラー)への恐れであった。また、アウラングゼーブはその生涯で数度にわたって自らコーランの書写を行っている。
アウラングゼーブはアクバル帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラーム教徒と非イスラーム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、シャリーアの厳格な適用によってイスラームの優位に基づく秩序を復活させた。故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中からムスリムとズィンミーという二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもっている。