本名は土井 多賀子。1928年11月30日 神戸市生まれ。
1969年の第32回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区に日本社会党から出馬し、初当選し政界デビュー。
昭和61年に日本社会党(当時)委員長となり、3年後の参院選でマドンナ旋風を引き起こし、憲政史上初の女性での衆議院議長や社会民主党党首まで務めた。
特に1990年前後は「おたかさんブーム」と呼ばれる程の勢いを誇り、「土井チルドレン」と呼ばれる保坂展人、辻元清美、福島瑞穂などの子分筋が続々と政界デビューを果たす。
第二次世界大戦における戦勝国の史観に基づく歪んだ歴史観しか持ち合わせていないのに、韓国や中国などを回り、謝罪を繰り返した。
そもそも外交とは、国民の財産と他国からの敬意を増進させることに目的があるのに、国益を損なうことばかりに力を注いでいた。
既に北朝鮮の拉致疑惑が日本で言われていたにもかかわらず、昭和62年に訪朝した際にはそのことに触れなかった。
それだけでなく、昭和63年に、拉致被害者の有本恵子さんの母親が土井事務所に相談に訪れたが相手にもせず、その後有本さん側にはなんの連絡もなかった。
翌平成元年には、拉致実行犯の辛光洙を含む政治犯の釈放を求める嘆願書が韓国政府に提出され、百人を超える日本の国会議員の署名があったが、土井は村山富市などとともに名を連ねていた。
平成9年には北朝鮮への食糧援助を巡って、日本国民が働いた富を無償で提供した上に、相手が犯罪に手を染めているにもかかわらず、擁護し続けた。
平成7年6月9日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」といった通知を衆議院内に回し、多くの議員が地元に戻った隙を狙って、衆議院議長だった土井は夜8時に本会議開会のベルを鳴らした。
議員総数509人の内、265人が欠席するという異常な状況の中、わずか230人という定数の半分以下の賛成で、「植民地支配や侵略的行為に深い反省の念を表明する」といった決議を強行した。
結局騙し討ちに過ぎず、あまりに卑怯なやり方であったために、その後参議院では上程すら見送られた程である。
土井が下手に動き回ったことで、日本は富も名声も失うという結果を招いた。
こうした一連の失策や東欧の社会主義国家の崩壊などから次第に信頼を無くし、辻元清美ら側近の秘書給与流用事件によりさらに凋落し社民党は泡沫政党と成り果て
土井本人も2005年の選挙で落選した。
2007年に政界引退を表明。結婚出産歴もなく独身の身であるため、現在は実姉による老老介護を受ける身となっていると報じられている。