井上源三郎
いのうえげんざぶろう
新撰組最古参の隊士の一人。六番隊組長も務める。
概要
文政12年(1829年)3月1日、武蔵国日野宿(東京都日野市)の八王子千人同心の家に三男として生まれる。
弘化4年(1847年)ごろ天然理心流の道場へ入門し、近藤勇の兄弟子として、土方歳三らとともに稽古に励んだ。
文久3年(1863年)2月、近藤らとともに浪士組に参加して上洛し、新撰組を結成。副長助勤を務める。
池田屋事件では土方隊の支隊を指揮し、梁に潜む浪士を短槍(佩刀でとも)で突いて仕留めるなど、多数の浪士を捕縛した。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで敵銃弾を受け戦死。
新撰組に入隊していた甥の井上泰助がその首を持ち帰ろうとしたが、あまりに重かったため近くの寺に刀とともに埋葬したとされる。
隊内でも目立つ程剣の腕は高くなかった様だが、血気盛んな組幹部内では特に人当たりが良かったという証言が残る、新撰組の癒し系組長。
一方で元隊士の阿部十郎は「大石、沖田、井上はやたらと人を殺しております」と語っている(ただし脱走者の発言であることは差し引く必要がある)。
尚、好々爺の様なイメージで描かれる事の多い彼だが、実際には近藤らと比べてみても5歳ほどしか年齢は離れておらず、島田魁(1828年生まれ)をはじめ彼より年長の隊士も新撰組には多数在籍していた。
ただし、当時から実年齢より上に見られていた模様。
創作上の扱い
所謂イケメンパラダイス的作品においては、年長者というのもあって「みんなのオトン」ポジションに置かれることが多い。美形という逸話も無いし。