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プロフィールによると、1989年4月2日・アメリカ合衆国ルイジアナニューオーリンズ出身。ザ・グレート・カブキの息子。父と同じくゲーリー・ハートがマネージャーを務めた。ちなみに、ニューオーリンズ出身と言っておきながら「魔界出身」とか言ったり、「ボノ」とか言う息子がいたりする。

正しい概要

その正体は言わずと知れた武藤敬司新日本プロレスに入団した武藤が、海外遠征に旅立った時アメリカのプロレス団体であるNWA(のちのWCW、現在はWWE傘下)に参戦した時に誕生した。元はプエルトリコでの修行時代にスーパー・ブラック・ニンジャのリングネームを名乗って活動していた所から始まる。これがNWAのプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、顔にペイントを施し、カブキの息子:「ザ・グレート・ムタ」が誕生。1989年にNWAに初登場するや、ムーンサルトプレスを必殺技にスティングリック・フレアーとの抗争を経て人気ヒールレスラーとなった。

日本初登場は1990年9月7日、大阪府立体育会館でのサムライ・シロー(越中詩郎)戦であるが、7日後に広島で行われた馳浩との凄惨な流血マッチでスタイルが確立され、これ以後、年に何度か登場しては対戦相手を流血毒霧地獄に追い込む試合展開をしている。

1994年に武藤・蝶野正洋VS長州力天龍源一郎の試合で、天龍の挑発とも取れる「ムタで来い」の台詞に触発し、すかさず蝶野をリング内に一人にし、およそ4分でムタに変身した事もあった。この頃、武藤はムタとのギャップに悩みムタを封印したが武藤としてIWGP王者になったことで翌1995年に解禁。4月の東京ドーム大会でWWFに参戦していた新崎人生とシングルマッチを行い勝利。この時からオーバーマスクを被るようになる。

1997年、nWoジャパン軍団所属時代に蝶野とタッグを組んでの佐々木健介山崎一夫のタッグ戦では、蝶野のダイビングショルダーアタックがムタへ誤爆してしまい仲違いを起こし、ムタは自ら顔のペイントを落とす仕種をしつつ蝶野をリング内に残し控室に戻り、その後、素顔である武藤とそのコスチューム姿になりリングへと戻った(こちらは前述の天龍の件より時間がかかった)。

nWoのリストバンドをリングに叩き付け蝶野へ激しく詰め寄る武藤。この瞬間、誰しもムタ(武藤)と蝶野の関係決裂、及びnWoジャパンからの離反を予想したのだが…

元来ペイントレスラーだったが、2000年の年末に武藤がスキンヘッドになって以降マスクマンに変更した。

闘魂三銃士の中で唯一、アントニオ猪木大仁田厚TAJIRIとシングルマッチをやった事がある。

「ムタ」の由来

名前の「ムタ」の由来には諸説あり、代表的なところでは「「グレート・ムトウ」と外国人が「ムトウ」とうまく発音できないために、武藤自身が呼びやすい名前にした。」と、

「現地のテレビ放送において、「Great Mutou」とテロップを誤って「Great Muta」と表示されてしまったことから始まった」の2つ。

小ネタ

中欧のスロベニア共和国には、「ムタ」と言う市がある。だからって、市民全員ペイントしてるわけじゃないぞ!!

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